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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第20章 カエサルの過去 ~青年期Ⅱ~

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海の沈黙

夕方。

ブルンディシウムの港は、遠くから見た灯りより生々しかった。

魚の匂い。

濡れた木。

松脂。

縄の擦れる音。

船板の軋み。

人の声。

金の音。

ここでは全てが混ざり、混ざったまま取引になる。


カエサルたち三人は、まず顔を伏せて歩いた。

伏せても、港は人を見上げてくる。

港の目は、客の目ではない。

売れるかどうかの目だ。


ティロが小声で言う。


「まず船だな」

「船さえあれば」


ルフスが吐く。


「船があっても」

「乗れなきゃ意味ない」


カエサルは頷いた。

頷きながら、足を止めない。

止まった瞬間に“よそ者”になる。

よそ者は売れる。


三人は小さな船から当たった。

漁師の舟。

沿岸を渡る小舟。

金を示す。

少なくない金だ。

それでも首を振られる。


「子どもだけは無理だ」

船頭が言う。

「帰り道で面倒を見る気はない」


別の船頭はもっと露骨だった。


「親を呼べ」

「それか腕の立つ大人を連れて来い」


ティロが歯を食いしばる。

ルフスが拳を握る。

カエサルは拳を握らない。

握れば殴りたくなる。

殴れば終わる。


何度も断られる。

断られるたびに、港が狭くなる気がした。

狭くなるほど、追手の影が濃くなる。


「時間がない」

カエサルが言う。


ティロが頷く。


「選べないな」



夜が近づき、灯りが増える。

灯りが増えるほど、顔が見える。

顔が見えるほど、噂も見える。


ようやく、声をかけてくる男がいた。

背が高い。

髭が濃い。

笑っている。

笑っているのに目が笑っていない。

港で一番怖い笑い方だ。


「渡りたいのか」

男が言う。

「アドリア海を」


ティロが一歩前へ出た。


「渡れるのか」


男はルフスを見て、次にカエサルを見た。

値札を読む目だ。


「渡れる」

「ただし金は上がる」

「今夜は海が嫌な顔をしてる」


カエサルが聞く。


「いくらだ」


男は、少し高い額を言った。

高い。

だが払えないほどではない。

払えないほどではないから、なお怖い。

港の高い金は、理由がある。


ティロが言う。


「高いな」


男は肩をすくめる。


「高いのが嫌なら、陸を走れ」

「走れないなら、乗れ」


言い方が、優しくない。

優しくないのに、逃げ道があるふりをしている。

それが怪しさだった。


ルフスがカエサルを見た。

目で言っている。

やめとけ、と。

でも他にない、と。


カエサルは一拍だけ黙った。

黙って、決めた。


「乗る」


ティロが金袋を握り直す。

握り直す手が少しだけ震える。

震えるのは恐怖ではない。

残りの命の数を数えている震えだ。


男は笑った。

笑い方が、魚を捌く時の笑いに似ていた。


「賢い」

「若いのに」


褒め言葉は、港では大抵、毒だ。

それでも三人は船へ向かった。

選んでいる暇がない。

選べるのは、死に方だけになってしまう。

それなら、まだ渡る。



渡海。

夜のアドリア海は黒い。

黒いのに、冷たい光だけはある。

星の光だ。

星は遠い。

遠いから頼りない。

頼りないのに、それしか目印がない。


船に乗ると、まず臭いが来た。

松脂。

濡れた縄。

魚の内臓。

塩。

人の汗。

木の古い匂い。

それらが混ざって、喉の奥を刺激する。


船板が軋む。

軋むたびに、命が擦れる音に聞こえる。

水が船腹を叩く音が、規則的に続く。

規則的なのに、安心できない。

規則は破れるためにある。

海はそういう場所だ。


ルフスが低い声で言う。


「追跡船は?」


ティロが闇を見た。

闇は広く、闇は何も答えない。


「見えない」

「でも、見えないのは」

「安心じゃない」


カエサルは答えなかった。

追跡船より怖いものがある。

嵐。

漂流。

沈むこと。

スッラの兵は避けられる。

海は避けられない。


風が少し強くなる。

帆が鳴る。

縄が震える。

船が傾く。

傾きが大きくなると、胃が遅れてついてこない。


ティロが顔をしかめる。

ルフスも唇を噛む。


「……気持ち悪い」

ルフスが言う。


「言うな」

ティロが返す。

「言うと」

「もっと来る」


来る。

吐き気が。

恐怖が。

冷えが。

波が。


カエサルは船縁を握った。

手のひらに木のささくれが刺さる。

刺さっても痛みは薄い。

痛みより、冷たさが勝つ。


空を見上げる。

星がある。

星があるのに、海は暗い。

暗い海の上で、人は小さくなる。

小さくなって、名も小さくなる気がした。

名が小さくなれば、氷から逃げられる。

そんな都合のいい考えが一瞬だけ浮かんで、すぐ消えた。


船は進む。

進むのに、どこへ向かっているのかが分かりにくい。

分かりにくいほど、沈黙が増える。

沈黙が増えるほど、緊張が濃くなる。


波が一つ、強く船底を叩いた。

叩かれた瞬間、船板が泣いた。

泣いた音が、嫌に長く残った。


男が船尾で怒鳴る。


「帆を締めろ!」

「風が変わる!」


風が変わる。

ローマで聞き慣れた言葉が、ここでは命の言葉になる。

風向き一つで、帰れなくなる。

帰れなくなるのは、ローマだけで十分だった。


三人は言葉を失った。

失うのは弱さではない。

ここでは沈黙のほうが、生きる。


夜の海は、追手より静かで、追手より冷たい。

その冷たさが、最大の敵だった。

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