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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第20章 カエサルの過去 ~青年期Ⅱ~

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港へ

洞窟の夜が、少しずつ短くなっていった。

ティロの看病が効いたのか。

それとも運が残っていたのか。

カエサルの熱は引いた。

引いた後に、体のだるさだけが残る。

残るだるさは、生き延びた証拠だった。


ルフスも起き上がれるようになった。

腕はまだ痛む。

膝も擦りむけたままだ。

それでも立てる。

立てるというだけで、今は十分だ。


「生きてるな」

ルフスが言った。


「生きてる」

カエサルが返す。


ティロは笑わない。

笑うと気が緩む。

緩んだ瞬間に死ぬ。

だから、言葉だけを置く。


「動けるうちに動く」


洞窟を出る前に、三人は小さな焚き跡を土で隠した。

隠すほどの火は焚いていない。

それでも隠す。

隠す癖が命になる。



数日後。

小さな街の外れ。

酒場の近くを避け、井戸の噂を拾う。

噂は水と一緒に回る。

水を汲む場所は、口が開く場所だからだ。


「探してるらしい」

女の声が言う。

「若い男が三人」

「片方が怪我してる」


「スッラの手の者だ」

別の声が続ける。

「金を出すってよ」

「見つけたら」


三人は足を止めなかった。

止めれば疑われる。

疑われれば終わる。

終わりはいつも、こういう些細な立ち止まりから始まる。


街を抜けてから、ようやく息を吐いた。

吐いた息が、乾いた草の匂いに混じる。


ルフスが言う。


「まだ追ってるな」


ティロが頷く。


「数が減らない」

「名簿が生きてる」


カエサルは口を閉じたまま歩いた。

口を閉じているのは、恐怖ではない。

判断を回している。

逃げ道の形を、頭の中で組み替えている。



夜。

森の縁。

焚火は小さく。

煙は布で押さえる。

火の匂いは遠くまで届く。

届けば、人も届く。


三人は輪になって座った。

これが作戦会議だ。

作戦会議という言葉が、急に生活の言葉になる。

政治ではなく、明日の飯と命の会議だ。


ティロが口を開いた。


「このまま陸を歩くと」

「街ごとに噂が先回りする」

「宿は無理」

「井戸も危ない」

「港町はもっと危ない」


ルフスが薪を折りながら言う。


「じゃあ森だけで行くか」


ティロが首を振る。


「森だけだと食い物が続かない」

「あと、怪我が治らない」

「お前の肩も」


ルフスは舌を鳴らす。


「分かってるよ」


カエサルがようやく言う。


「……海を渡る」


ティロが目を上げる。


「イタリアから出るってこと?」


「そうだ」

カエサルが言う。

「追手が陸路で探すなら」

「陸から消える」


ルフスが眉を寄せる。


「海は海で危ないぞ」

「港には人がいる」

「人は売る」


カエサルは頷く。


「分かってる」

「でも、ここにいる限り」

「スッラの手は伸び続ける」


ティロが手元の小さな紙束を確かめる。

濡らさないよう油布に包んだ文。

印章。

少しの銅貨。

それしかない。

それでも道は作れる。


「渡るなら」

ティロが言う。

「どこから」


カエサルは地図を持っていない。

だが頭の中に、ローマの道の記憶がある。

父が昔話した港の名。

商人が言っていた海の名。

それらが一本の線になる。


「ブルンディシウム」

カエサルが言う。

「東へ渡る港だ」

「アジアへ向かう船が出る」


ルフスが短く笑った。


「遠いな」


「遠い」

カエサルは認める。

「だからこそ、消えられる」


ティロが頷く。


「決まりだな」

「目標地、ブルンディシウム」


ルフスが薪を火にくべる。

火が少しだけ強くなる。

強くなる火は、希望にも見える。

希望は危険だ。

危険でも、今は必要だった。


「行こう」

ルフスが言う。

「走り切れば」

「海がある」


カエサルは火を見た。

火の向こうに、まだ見えない港を想像する。

港の向こうに、まだ見えない世界を想像する。


「やる」

カエサルが言う。

「やるしかない」



そこから先は、試練が続いた。

街を避ける夜。

雨で足を取られる道。

盗賊の気配。

追手の匂い。

食い物が尽きる日。

水が濁る日。

それでも三人は止まらなかった。


止まれば、追いつかれる。

追いつかれれば、終わる。

終わると分かっているから、止まれない。


やがて海の匂いが混じり始めた。

風が塩を運ぶ。

鳥の声が変わる。

道が少しずつ平らになる。


そして。

ようやっとブルンディシウムに着いた。

港の灯りが遠くで揺れている。

揺れているのに、胸の中の氷はまだ溶けない。


「着いたな」

ルフスが言う。


ティロが息を吐く。


「着いた」

「……でもここからだ」


カエサルは頷いた。

海は逃げ道であり、同時に新しい追跡の始まりでもある。

それでも港は港だ。

道の終わりであり、道の始まりだった。

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