港へ
洞窟の夜が、少しずつ短くなっていった。
ティロの看病が効いたのか。
それとも運が残っていたのか。
カエサルの熱は引いた。
引いた後に、体のだるさだけが残る。
残るだるさは、生き延びた証拠だった。
ルフスも起き上がれるようになった。
腕はまだ痛む。
膝も擦りむけたままだ。
それでも立てる。
立てるというだけで、今は十分だ。
「生きてるな」
ルフスが言った。
「生きてる」
カエサルが返す。
ティロは笑わない。
笑うと気が緩む。
緩んだ瞬間に死ぬ。
だから、言葉だけを置く。
「動けるうちに動く」
洞窟を出る前に、三人は小さな焚き跡を土で隠した。
隠すほどの火は焚いていない。
それでも隠す。
隠す癖が命になる。
*
数日後。
小さな街の外れ。
酒場の近くを避け、井戸の噂を拾う。
噂は水と一緒に回る。
水を汲む場所は、口が開く場所だからだ。
「探してるらしい」
女の声が言う。
「若い男が三人」
「片方が怪我してる」
「スッラの手の者だ」
別の声が続ける。
「金を出すってよ」
「見つけたら」
三人は足を止めなかった。
止めれば疑われる。
疑われれば終わる。
終わりはいつも、こういう些細な立ち止まりから始まる。
街を抜けてから、ようやく息を吐いた。
吐いた息が、乾いた草の匂いに混じる。
ルフスが言う。
「まだ追ってるな」
ティロが頷く。
「数が減らない」
「名簿が生きてる」
カエサルは口を閉じたまま歩いた。
口を閉じているのは、恐怖ではない。
判断を回している。
逃げ道の形を、頭の中で組み替えている。
*
夜。
森の縁。
焚火は小さく。
煙は布で押さえる。
火の匂いは遠くまで届く。
届けば、人も届く。
三人は輪になって座った。
これが作戦会議だ。
作戦会議という言葉が、急に生活の言葉になる。
政治ではなく、明日の飯と命の会議だ。
ティロが口を開いた。
「このまま陸を歩くと」
「街ごとに噂が先回りする」
「宿は無理」
「井戸も危ない」
「港町はもっと危ない」
ルフスが薪を折りながら言う。
「じゃあ森だけで行くか」
ティロが首を振る。
「森だけだと食い物が続かない」
「あと、怪我が治らない」
「お前の肩も」
ルフスは舌を鳴らす。
「分かってるよ」
カエサルがようやく言う。
「……海を渡る」
ティロが目を上げる。
「イタリアから出るってこと?」
「そうだ」
カエサルが言う。
「追手が陸路で探すなら」
「陸から消える」
ルフスが眉を寄せる。
「海は海で危ないぞ」
「港には人がいる」
「人は売る」
カエサルは頷く。
「分かってる」
「でも、ここにいる限り」
「スッラの手は伸び続ける」
ティロが手元の小さな紙束を確かめる。
濡らさないよう油布に包んだ文。
印章。
少しの銅貨。
それしかない。
それでも道は作れる。
「渡るなら」
ティロが言う。
「どこから」
カエサルは地図を持っていない。
だが頭の中に、ローマの道の記憶がある。
父が昔話した港の名。
商人が言っていた海の名。
それらが一本の線になる。
「ブルンディシウム」
カエサルが言う。
「東へ渡る港だ」
「アジアへ向かう船が出る」
ルフスが短く笑った。
「遠いな」
「遠い」
カエサルは認める。
「だからこそ、消えられる」
ティロが頷く。
「決まりだな」
「目標地、ブルンディシウム」
ルフスが薪を火にくべる。
火が少しだけ強くなる。
強くなる火は、希望にも見える。
希望は危険だ。
危険でも、今は必要だった。
「行こう」
ルフスが言う。
「走り切れば」
「海がある」
カエサルは火を見た。
火の向こうに、まだ見えない港を想像する。
港の向こうに、まだ見えない世界を想像する。
「やる」
カエサルが言う。
「やるしかない」
*
そこから先は、試練が続いた。
街を避ける夜。
雨で足を取られる道。
盗賊の気配。
追手の匂い。
食い物が尽きる日。
水が濁る日。
それでも三人は止まらなかった。
止まれば、追いつかれる。
追いつかれれば、終わる。
終わると分かっているから、止まれない。
やがて海の匂いが混じり始めた。
風が塩を運ぶ。
鳥の声が変わる。
道が少しずつ平らになる。
そして。
ようやっとブルンディシウムに着いた。
港の灯りが遠くで揺れている。
揺れているのに、胸の中の氷はまだ溶けない。
「着いたな」
ルフスが言う。
ティロが息を吐く。
「着いた」
「……でもここからだ」
カエサルは頷いた。
海は逃げ道であり、同時に新しい追跡の始まりでもある。
それでも港は港だ。
道の終わりであり、道の始まりだった。




