海の向こうの雑踏
朝。
船が港へ近づく。
潮の匂いが少し甘くなる。
波の音が、壁に跳ね返る音に変わる。
それだけで「陸だ」と分かる。
デュラキウム。
ギリシャ側の港町。
船板の軋みが止まると、三人の体から遅れて緊張が抜けた。
抜けた瞬間、足がふらつく。
ふらついて、笑う余裕がない。
余裕がないのに、息が吸える。
港に足を下ろす。
石畳の硬さが、懐かしい。
懐かしいのに、音が違う。
言葉が違う。
雑踏がギリシャ語で流れている。
耳が捉えられない速さで、声が行き交う。
「……何言ってるか分かんねえ」
ルフスが言う。
ティロが肩をすくめる。
「分かんなくていい」
「分かると、また巻き込まれる」
カエサルは何も言わず、周りを見た。
看板の文字。
港の荷の呼び方。
値段の交渉。
怒鳴り声も、笑い声も、ローマの音より少し軽い。
軽いのに、油断すると置いていかれる。
イタリアから一変していた。
ここではスッラの名が、空気を凍らせない。
それだけで胸の中の氷が少し薄くなる。
薄くなると同時に、不安が別の形で顔を出す。
ローマの権威が薄い。
つまり、守ってくれるものがない。
守ってくれるものがない場所では、腕と金と運が全てになる。
ティロが言った。
「ここで息を整えよう」
「追手が来ても」
「すぐには見分けにくい」
ルフスが不満そうに鼻を鳴らす。
「見分けにくいって」
「俺たちも見分けられにくいってことだろ」
「そう」
ティロが言う。
「だから今が、いちばん安全で」
「いちばん無防備だ」
カエサルは頷いた。
安全と無防備が同じ言葉になる。
逃亡の国境の向こうは、そういう場所だった。
*
昼。
三人は街へ入った。
入った瞬間、匂いが変わる。
海の塩から、香草と焼き物の匂いへ。
パンの焼ける匂い。
オリーブの油。
羊の脂。
乾いた土の匂い。
ローマの市場とは違う。
声が違う。
値札の作り方が違う。
目の動きが違う。
ルフスは目を輝かせる。
輝かせているのに、声は抑えている。
「なんか」
「生きてるって感じするな」
ティロが横から突く。
「生きてるんだよ」
「死んでるやつは歩けない」
カエサルは小さく息を吐いた。
こういうやり取りができるだけで、少しだけ人に戻れる。
三人は短い時間、街を堪能した。
堪能と言っても派手なことではない。
屋台の薄い葡萄酒を少しだけ飲む。
焼いた魚を分ける。
陶器の店先で、ローマにはない形の器を眺める。
子どもがギリシャ語で喧嘩しているのを見て、意味は分からないのに笑う。
笑えるのが怖い。
怖いのに、笑ってしまう。
笑ってしまうことで、ここがローマではないと実感する。
夕方。
港の方から風が吹く。
吹く風が冷たい。
冷たい風が、現実を連れてくる。
いつまでも観光客ではいられない。
逃亡者は目的が要る。
*
夜。
三人は安い宿の部屋で向かい合った。
今度の宿は、値段で選んだのではない。
目で選んだ。
口が軽そうな宿主は避ける。
客が多すぎる宿も避ける。
兵が寄りそうな宿も避ける。
ティロが小声で言う。
「で」
「次、どうする」
ルフスが腕を組む。
「このまま街をうろついてても」
「金が減るだけだぞ」
カエサルは頷いた。
そして静かに言う。
「選択肢は二つだ」
「学ぶか」
「戦うか」
ルフスが眉を上げる。
「学ぶ?」
「大学みたいなところ」
カエサルが言う。
「ギリシャの学問に触れる」
「言葉を覚える」
「それでローマへ戻る時の武器にする」
ティロが少しだけ目を細める。
その話は魅力的だ。
紙の人間にとって、学びは剣より頼りになる。
ルフスが言う。
「もう一つは」
「軍に入る」
カエサルが言う。
「どこかの軍で兵務する」
「飯と寝床を確保する」
「それに——」
「俺たち三人で動く以上」
「後者のほうが現実的だ」
ティロがすぐに聞いた。
「当てはあるのか」
ルフスも頷く。
「だな」
「ギリシャで」
「誰の軍に潜り込むんだよ」
カエサルは一拍だけ黙った。
黙ってから、口元だけを少し上げた。
不敵な笑みだった。
アリーナで見せる笑みではない。
家長の笑みでもない。
逃亡者が、次の道を見つけた時の笑みだ。
「ある」
カエサルが言う。
「海は渡った」
「次は、名前じゃなく」
「腕で居場所を作る」
ティロがため息を吐く。
「……その笑い方」
「嫌な予感しかしねえ」
ルフスが笑う。
「でも」
「そういう顔の時のカエサルは」
「だいたい生き残る」
カエサルは笑みを消さなかった。
消さないまま、窓の外のギリシャ語の雑踏を聞いた。
ここはローマではない。
だからこそ、次の戦いの入り口だった。




