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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第20章 カエサルの過去 ~青年期Ⅱ~

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手と影

路地裏。

家を抜け出してしばらく。

街の灯りはまだ遠くにある。

近いのは闇と、壁の冷たさと、息の音だけだ。


カエサルとティロは足音を殺して進んだ。

殺しても、心臓の音は殺せない。

心臓の音が一番うるさい。

うるさいのに、誰にも聞こえないのが不思議だった。


角を曲がった瞬間。

急に手が伸びてきた。

腕を掴まれ、引かれる。

抵抗する暇がない。

壁の影に引き摺り込まれる。

石の匂いが鼻を打つ。

ティロが息を呑む。


「——っ」


カエサルは反射で腕を振りほどこうとした。

だが引く力が、敵のそれではない。

急いでいるのに、乱暴ではない。

引く角度が、逃げ道を知っている角度だ。


低い声が耳元に落ちた。


「黙れ」

「動くな」


その声に聞き覚えがあった。


「……ルフス?」

カエサルが囁く。


闇の中で、目だけが光る。

ルフスだった。

口元に笑いの形はない。

代わりに、怒っている顔をしている。

怒りが、怖さを覆っている顔だ。


「お前さ」

ルフスが言う。

「置いてくなよ」


ティロが小声で言う。


「今それ言う?」

「今だから言うんだよ」

ルフスは吐くように返す。

「音、聞こえる」


三人とも息を止めた。

路地の向こうから足音が近づく。

二人。

いや、三人。

金具が擦れる音が混じる。

私兵だ。

私兵は道に慣れていない。

だから足音が雑だ。

雑な足音は、獣みたいに怖い。


影が路地の口を横切った。

灯りが一瞬だけ石に反射する。

槍の先が見える。

私兵の低い声が聞こえる。


「こっちだと思ったが」

「外れか」

「急げ。別の路地だ」


足音が遠ざかる。

遠ざかるまで、三人とも動かなかった。

動けば石が鳴る。

石が鳴れば名前が鳴る。

名前が鳴れば終わる。


やがて、風だけが戻る。

戻った風が、汗を冷やす。


ルフスが先に息を吐いた。


「……今のが、追手だ」


ティロが言う。


「知ってる」

「だから黙ってた」


カエサルはルフスを見た。

見て、言いたいことが多すぎて、まず一つだけ言う。


「なんでここにいる」


ルフスは鼻で笑った。

笑うには遅すぎる。

でも笑わないと震えるから笑う。


「俺がいないと思った?」

「昨日まで一緒に剣振ってたのに?」

「お前が逃げるって噂が街で回って」

「お前ん家の裏口が静かになって」

「そんでティロの顔が急に紙色になって」


ティロがむっとする。


「紙色って何だよ」

「褒めてる」

ルフスが言う。

「紙のほうが長生きするだろ」


カエサルが小声で遮った。


「……家には」

「断ったのか」


ルフスの目が少しだけ揺れる。

揺れたのに、言い切る。


「断った」

「母ちゃんに言った」

「“俺、友達助けに行く”って」

「怒られた」

「でも、怒られた後に」

「袋、渡された」


「袋?」

ティロが聞く。


ルフスは腰の布を叩く。


「乾いたパンと」

「銅貨と」

「針と糸」

「……それと、帰ってこいって言葉」


その言葉だけが、路地裏で妙に温かかった。

温かいものは、今のローマでは危険だ。

危険でも、必要だ。


カエサルは喉が詰まるのを感じて、短く言った。


「……ありがとう」


ルフスはすぐに首を振った。


「礼言うな」

「礼なんか言ったら」

「俺、後悔しそうになる」


ティロが小さく笑う。

笑いがすぐ消える。

消えた後、現実が戻る。


「で」

ティロが言う。

「どうすんの」

「お前、付いてくんの」


ルフスは即答した。


「付いてく」

「お前ら二人だけだと」

「絶対、真面目に死にに行く」


カエサルが眉を寄せる。


「真面目に死にに行くって何だ」

「お前、真面目だから」

ルフスが言う。

「ティロは賢いけど、賢すぎる」

「賢いと、手が遅れる時がある」


ティロが言い返す。


「遅れねえよ」

「遅れる」

ルフスは即答する。

「だってお前、紙を整えてから死ぬタイプだろ」


ティロが舌打ちしそうになって、飲み込んだ。

音が出るからだ。


カエサルが言う。


「……三人で動くと目立つ」


ルフスが返す。


「二人でも目立つ」

「目立つなら、目立ち方を選べ」

「俺が前に立つ」

「お前は、後ろで生き残れ」


その言い方が、剣の稽古の時の言い方だった。

決闘の前に、背中を預ける言い方だ。

背中を預けるのが怖い。

でも預けないと、死ぬ。


カエサルは頷いた。


「……分かった」


ルフスが口元を少しだけ歪める。

ようやく笑いに近い形が戻る。


「じゃあ決まり」

「逃亡生活、三人組だ」


ティロが小声で言う。


「喜ぶな」

「喜んでねえよ」

ルフスは言い返す。

「でも、数が増えると」

「怖さがちょっと割れる」


怖さが割れる。

それは確かにあった。

割れても消えない。

でも割れると、息ができる。


三人は路地を抜けた。

抜け方は速い。

速いのに乱れない。

乱れないように、息の回数を揃える。

剣の稽古で覚えた揃え方だ。



数日後。

ローマの外。

最初の宿。


宿は小さかった。

壁は薄い。

床は軋む。

臭いは濃い。

濃い臭いは、よそ者を隠すこともある。

隠す代わりに、危険も隠す。


三人は名を変えた。

変えた名が舌に馴染まない。

馴染まない名ほど、口を滑らせない。


夜。

宿の灯りが揺れる。

廊下で誰かが笑っている。

笑い声の中に、銅貨の音が混じる。

銅貨の音は、話が決まった音だ。


カエサルは目を開けた。

開けた瞬間に気づく。

宿の気配が変わっている。

変わっているのは、酒のせいではない。

計算のせいだ。


戸の外で、宿主の声が聞こえた。

低い声。

媚びる声。

そして、値段を言う声。


「ええ、ええ」

「それらしい若者が三人」

「今夜はここに」

「……いくらになります」


ティロが布団の中で身を固くした。

ルフスがゆっくり拳を握る。

カエサルは息を吐いた。

吐いた息が冷たい。

ローマを出ても、氷はついてくる。


「……売られたな」

ルフスが囁く。


ティロが答える。


「売られるの、早すぎだろ」


カエサルは短く言った。


「動く」


その一言で、三人の体が同時に起き上がった。

音を立てない。

息を揃える。

荷は最小。

剣は抜かない。

抜けば音が出る。

音が出れば、追手が楽になる。


戸の向こうで足音が増える。

増える足音が、まっすぐこちらへ来る。

宿の床板が鳴る。

鳴るたびに、時間が削られる。


逃亡生活は始まった。

始まったばかりで、いきなり試される。

試されるのは剣ではない。

判断の速さだ。


三人は、闇の中へ滑り出す準備をした。

外の世界は、もう待ってくれない。

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