正気か
スッラ陣営は静かに忙しかった。
剣の音より、紙の音が多い。
粛清の名簿。
没収の割り当て。
空席になった公職の配分。
誰を生かして誰を殺すかが、机の上で整えられていく。
天幕の外では兵が列を整えている。
列の整い方が、占領ではなく「帰ってきた」整い方だった。
道を覚えている兵は迷わない。
迷わない兵の足音は、街の鼓動を奪う。
そこへ一通の手紙が届いた。
封蝋は新しい。
宛名は短い。
余計な飾りがない。
余計な飾りがないほど、書き手の覚悟が匂う。
「ユリウスの子です」
伝令が言う。
「カエサルより」
周囲の空気が一段冷える。
名は氷を呼ぶ。
氷は人を静かにする。
手紙は、まずポンペイウスの手に渡った。
スッラに通す前に、内容を確かめるためだ。
この陣営では、礼儀より安全が先に来る。
ポンペイウスは封を割る。
紙を広げる。
数行を目で追った瞬間、眉がわずかに寄った。
「……正気か」
声は低い。
低いのに、周りには十分聞こえた。
聞こえた瞬間、誰も笑わない。
笑えば、同意に見える。
ポンペイウスは紙を畳み直し、スッラの前へ置いた。
置き方が丁寧すぎない。
丁寧すぎると、紙が重くなる。
重くなると、命令が早くなる。
スッラは視線だけで紙を拾い上げた。
目が乾いている。
乾いた目は、文字を読むより先に結末を読む。
数行。
それだけで十分だった。
カエサルは、条件を拒んでいる。
コルネリアと別れることを断る。
命と引き換えに差し出せと言われたものを、差し出さない。
それが紙の中身だった。
天幕の中で、息が止まる。
止まったまま、誰も助け舟を出せない。
これ以上は、フォローができない。
フォローすれば、名簿の線がこちらへ伸びる。
スッラの指が紙の端を強く押さえた。
紙が音を立てる。
その小さな音が、処刑の合図みたいに響く。
「探し出せ」
スッラが言う。
「連れて来い」
命令は短い。
短い命令ほど、戻れない。
スッラは手紙を握りしめた。
握りしめた拳が白くなる。
白くなるほど、怒りは冷たい。
「マリウスめが」
その一言で、天幕の空気がさらに凍る。
死んだ名が、まだ生きている。
生きているから、殺される。
*
同じ頃。
ユリウス家では、出ていく準備が進んでいた。
出ていくと言っても、カエサルだけだ。
家ごと動けば目立つ。
目立てば、家は潰れる。
だから主だけが消える。
消えて、家を残す。
アウレリアは荷の量を増やさせなかった。
増やせば足が遅くなる。
遅くなれば捕まる。
捕まれば終わる。
「これだけ」
アウレリアが言う。
「余計なものは捨てなさい」
「家のものは、家に置く」
カエサルは短く頷いた。
頷くたびに、椅子が遠くなる気がした。
遠くなるのに、責任は離れない。
ティロが紙の束を紐でまとめている。
焼くもの。
残すもの。
持ち出すもの。
持ち出すものは薄い。
薄いほど、強い。
薄い紙が命を守る。
アウレリアがティロに言った。
「ティロ」
「同行して」
ティロは顔を上げた。
迷いはない。
迷いがないのは、もう最初から決めていたからだ。
「最初からそのつもり」
ティロが言う。
「お前一人で行かせるとか、無理」
カエサルが言う。
「危ないぞ」
ティロは鼻で笑った。
「危なくない道がどこにあんだよ」
「それに、紙と口は俺の担当だろ」
アウレリアはそれ以上言わない。
言えば情になる。
情は足を止める。
止めると死ぬ。
彼女は止めない強さで、息子を送り出す。
「必ず戻る」
カエサルが言った。
アウレリアは頷いた。
頷きは一度だけだ。
「戻るなら」
アウレリアが言う。
「戻れる形を残して行きなさい」
*
夜。
家の中の灯りはさらに落とされる。
落とすことで、外の目をすり抜ける。
すり抜けても、音は残る。
だから足音まで小さくする。
コルネリアは寝室の前に立っていた。
泣いていない。
泣いていないが、目の赤みだけが消えていない。
消えない赤みは、夜の記憶だ。
「私が一緒に行けば」
コルネリアが言う。
「条件は——」
カエサルは首を振った。
「だめだ」
「お前が動いたら、余計に目立つ」
「それに……」
「俺が書いた文を、俺が裏切れない」
コルネリアの唇が少しだけ震えた。
震えたのに、声は崩れない。
「あなたは、私を選んだのですね」
「選んだ」
カエサルが言う。
「選んだから、引き受ける」
言葉がまっすぐすぎて、今は逆に痛い。
痛いのに、嘘が混ざらない。
嘘がないから、別れの言葉になる。
「しばらくして」
カエサルが言う。
「また会おう」
コルネリアは小さく笑おうとして、笑えなかった。
笑えない代わりに頷いた。
「はい」
「……生きて」
カエサルは彼女を抱きしめた。
強く。
強すぎないように。
離れたくない抱擁ではなく、離れても崩れない抱擁で。
コルネリアも腕を回した。
その腕が、無言の同盟の返事だった。
言葉はそれ以上いらなかった。
言葉を増やすと、涙が溢れる。
涙が溢れると、足が止まる。
止まれば、朝が来る前に終わる。
カエサルは一歩引いた。
引いて、目を逸らさずに言った。
「行く」
ティロが戸口で頷く。
「行くぞ」
「足音、殺せ」
二人は闇へ溶ける。
闇に溶けても、街は溶かしてくれない。
街は名を覚えている。
名は氷になる。
背後で、ユリウス家の扉が静かに閉まった。
閉まる音は小さい。
小さいのに、世界が一つ区切られた気がした。
そしてどこか遠くで、兵の足音が揃う。
揃った足音が、こちらへ道を覚え始めていた。




