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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第20章 カエサルの過去 ~青年期Ⅱ~

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氷の名

スッラ。

その名が、また街の会話で普通に出るようになった。

普通に出るようになった時点で、普通ではない。

名を出せる者は祝う。

名を出せない者は怯える。

名を出して値段を変える者は計算している。


キンナが死んでからの空白が、遅れて痛み始めた。

痛みは最初、噂の形をして出る。

次に戸締りの形で出る。

最後に、名簿の形で出る。


反スッラ派の残党は焦っていた。

焦りは声を大きくする。

声が大きくなるほど、密告は簡単になる。

密告が簡単になるほど、街は静かになる。

静かになるほど、氷は厚くなる。



ルフスは朝の市場を歩いていた。

肉屋の前で立ち止まり、値札を見て眉をひそめる。

干し肉が上がっている。

塩も上がっている。

油も上がっている。

こういう時、先に上がるのは「逃げる者が持っていくもの」だ。


「なあ、聞いたか」

隣の男が言う。

「スッラがもう港に――」


別の男がすぐに口を塞ぐように声を落とした。


「ここで言うな」

「壁が聞く」


壁が聞く。

その言葉が、もう冗談ではなくなっている。


ルフスは何も言わず、銅貨を握り直した。

声を出さない代わりに、耳を動かす。

耳の動きが、最近のローマの生活だった。


市場の奥では、少年たちが落書きをしていた。

「勝者は誰だ」

「スッラ万歳」

「カルボは逃げる」

字は乱れている。

乱れているのに、誰かがすぐに上から塗りつぶす。

塗りつぶす手が早い。

早い手は、町の側の手ではない。


パン屋の前では女が言い争っている。

「買い占めるな」

「子どもがいるのよ」

「こっちだっている」

言葉が生活そのものになる。

政治が遠景だった頃は、こんな言い争いに名前は出なかった。

今は違う。

政治は台所に降りてきている。


「スッラが帰るんだろ」

誰かが吐き捨てる。

「なら今のうちに食っとけ」


別の誰かが笑う。

笑い方が乾いている。


「食えるやつは食える」

「食えないやつは、名を売る」


名を売る。

密告の話だ。

密告は剣より安く、人を殺す。

ルフスは喉が渇くのを感じた。


道の角に、私兵が立っている。

制服ではない。

だから余計に怖い。

誰の兵か分からない兵は、誰の命令でも動く。


夜の戸締りの話も増えていた。

「日が落ちたら開けるな」

「灯りを外に漏らすな」

「戸口に水を置け」

火のためではない。

足音のためだ。

誰かが来たら、水面が揺れる。

揺れたら、逃げるか、黙るかを選べる。


ルフスは口の中で苦く言った。

ローマはいつから、こんな暮らしになった。

いつから、政治が皿の上に乗るようになった。


答えは知っている。

名だ。

名が氷になる。

氷が滑りを作る。

滑りは転ぶ者を選ばない。



昼。

ルフスはユリウス家の裏口へ回った。

正面から入るのは、今は目立つ。

目立つことが、生活にとって一番危ない。


ティロが出てくる。

手に紙束。

腰に印章の袋。

顔が前より固い。

固いのに、目だけが忙しい。


「久しぶり」

ルフスが言う。


ティロは短く返した。


「久しぶりにするなよ」

「今は久しぶりって言ってる場合じゃない」


ルフスは頷く。

頷くと、喉が鳴る。

この街は、頷きの音まで聞かれる気がする。


「噂、やばいな」

ルフスが言う。

「市場がもう――」


「うん」

ティロが遮る。

「値段が上がるのは、帰ってくる前兆だ」

「で、これ」


ティロは紙束の一枚を見せた。

名が並んでいる。

印が付いている。

宛先が違う。

封蝋の色が違う。


「何だそれ」

ルフスが聞く。


ティロは声を落とす。


「手紙」

「連絡網」

「会える人、会えない人」

「同じ文面でも、印章が違う」

「届く場所が違う」


「……お前、そういうの得意だな」


「得意になった」

ティロは短く言う。

「得意じゃないと死ぬ」


その言葉が重い。

重いのに、現実だ。


カエサルが奥から出てくる。

顔は家長の顔になっている。

だが目の奥に、まだ少年の焦りが残る。

残っているから、危ない。

危ないから、強く見える。


「ルフス」

カエサルが言う。

「街はどうだ」


ルフスは答えた。

生活の言葉で答える。

政治の言葉では足りないからだ。


「パンが上がった」

「塩が上がった」

「落書きが増えた」

「夜、戸が閉まるのが早い」

「私兵が角にいる」


カエサルの顎がわずかに上がる。

怒りではない。

覚悟だ。


「……来るな」

カエサルが言う。

「もう、来る」


アウレリアの声が奥から飛ぶ。

飛ぶが、慌てない。

慌てない声が、家を回す。


「道具を先に揃える」

「逃げるか備えるかは、道具が揃ってから決めてもいい」

「道具がない判断は、ただの願いになる」


道具。

それは剣ではない。

紙。

印章。

金。

鍵。

服。

馬。

水袋。

匂いを消す油。

それら全部が、逃亡にも備えにも使える。


ティロが紙をまとめ直しながら言った。


「名簿もいる」

「どの家人が、どこに親類がいるか」

「誰が走れるか」

「誰が黙れるか」


ルフスが息を吐く。


「黙れるか、って何だよ」


ティロが笑わないで答える。


「必要なんだよ」

「ローマでは」



夕方。

一通の報が入る。

報はいつも、封蝋と足音で先に分かる。

走ってきた者の息が荒い。

荒いのに、声が小さい。

小さいのが怖い。


「上陸しました」

使者が言う。

「スッラ軍が」

「イタリアへ」

「進軍してきます」


部屋の空気が一度だけ止まる。

止まってから、動き出す。

動き出すのは恐怖ではない。

手順だ。


アウレリアが言う。


「戸を二重に」

「灯りを外に漏らさない」

「金を分ける」

「紙を焼くものと残すものを分ける」


ティロが即座に動く。

印章を袋へ。

手紙を三つに分ける。

宛先別。

使い手別。

焼却用。

保管用。


カエサルは剣に手を伸ばさない。

伸ばすのは机の上の地図だ。

地図に指を置く。

置いた指が震えない。

震えないように、呼吸を数える。


「ルフス」

カエサルが言う。

「外の様子を見てくれ」


ルフスは頷いた。

頷いてから、一瞬だけためらう。

ためらいは恐怖ではない。

戻ってこられるかの計算だ。


「わかった」

ルフスは言う。

「戻る」


外へ出る背中が、少し硬い。

硬い背中が、今のローマの背中だった。


夜が近づく。

戸締りの音が増える。

密告の噂が増える。

落書きが増える。

そして消える。

消える速さだけが、やけに揃っている。


氷の名が、街を冷やしていく。

スッラ。

それはもう、遠い戦場の名ではない。

生活の名になった。

ローマの夜に、氷が張り始めていた。

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