氷の名
スッラ。
その名が、また街の会話で普通に出るようになった。
普通に出るようになった時点で、普通ではない。
名を出せる者は祝う。
名を出せない者は怯える。
名を出して値段を変える者は計算している。
キンナが死んでからの空白が、遅れて痛み始めた。
痛みは最初、噂の形をして出る。
次に戸締りの形で出る。
最後に、名簿の形で出る。
反スッラ派の残党は焦っていた。
焦りは声を大きくする。
声が大きくなるほど、密告は簡単になる。
密告が簡単になるほど、街は静かになる。
静かになるほど、氷は厚くなる。
*
ルフスは朝の市場を歩いていた。
肉屋の前で立ち止まり、値札を見て眉をひそめる。
干し肉が上がっている。
塩も上がっている。
油も上がっている。
こういう時、先に上がるのは「逃げる者が持っていくもの」だ。
「なあ、聞いたか」
隣の男が言う。
「スッラがもう港に――」
別の男がすぐに口を塞ぐように声を落とした。
「ここで言うな」
「壁が聞く」
壁が聞く。
その言葉が、もう冗談ではなくなっている。
ルフスは何も言わず、銅貨を握り直した。
声を出さない代わりに、耳を動かす。
耳の動きが、最近のローマの生活だった。
市場の奥では、少年たちが落書きをしていた。
「勝者は誰だ」
「スッラ万歳」
「カルボは逃げる」
字は乱れている。
乱れているのに、誰かがすぐに上から塗りつぶす。
塗りつぶす手が早い。
早い手は、町の側の手ではない。
パン屋の前では女が言い争っている。
「買い占めるな」
「子どもがいるのよ」
「こっちだっている」
言葉が生活そのものになる。
政治が遠景だった頃は、こんな言い争いに名前は出なかった。
今は違う。
政治は台所に降りてきている。
「スッラが帰るんだろ」
誰かが吐き捨てる。
「なら今のうちに食っとけ」
別の誰かが笑う。
笑い方が乾いている。
「食えるやつは食える」
「食えないやつは、名を売る」
名を売る。
密告の話だ。
密告は剣より安く、人を殺す。
ルフスは喉が渇くのを感じた。
道の角に、私兵が立っている。
制服ではない。
だから余計に怖い。
誰の兵か分からない兵は、誰の命令でも動く。
夜の戸締りの話も増えていた。
「日が落ちたら開けるな」
「灯りを外に漏らすな」
「戸口に水を置け」
火のためではない。
足音のためだ。
誰かが来たら、水面が揺れる。
揺れたら、逃げるか、黙るかを選べる。
ルフスは口の中で苦く言った。
ローマはいつから、こんな暮らしになった。
いつから、政治が皿の上に乗るようになった。
答えは知っている。
名だ。
名が氷になる。
氷が滑りを作る。
滑りは転ぶ者を選ばない。
*
昼。
ルフスはユリウス家の裏口へ回った。
正面から入るのは、今は目立つ。
目立つことが、生活にとって一番危ない。
ティロが出てくる。
手に紙束。
腰に印章の袋。
顔が前より固い。
固いのに、目だけが忙しい。
「久しぶり」
ルフスが言う。
ティロは短く返した。
「久しぶりにするなよ」
「今は久しぶりって言ってる場合じゃない」
ルフスは頷く。
頷くと、喉が鳴る。
この街は、頷きの音まで聞かれる気がする。
「噂、やばいな」
ルフスが言う。
「市場がもう――」
「うん」
ティロが遮る。
「値段が上がるのは、帰ってくる前兆だ」
「で、これ」
ティロは紙束の一枚を見せた。
名が並んでいる。
印が付いている。
宛先が違う。
封蝋の色が違う。
「何だそれ」
ルフスが聞く。
ティロは声を落とす。
「手紙」
「連絡網」
「会える人、会えない人」
「同じ文面でも、印章が違う」
「届く場所が違う」
「……お前、そういうの得意だな」
「得意になった」
ティロは短く言う。
「得意じゃないと死ぬ」
その言葉が重い。
重いのに、現実だ。
カエサルが奥から出てくる。
顔は家長の顔になっている。
だが目の奥に、まだ少年の焦りが残る。
残っているから、危ない。
危ないから、強く見える。
「ルフス」
カエサルが言う。
「街はどうだ」
ルフスは答えた。
生活の言葉で答える。
政治の言葉では足りないからだ。
「パンが上がった」
「塩が上がった」
「落書きが増えた」
「夜、戸が閉まるのが早い」
「私兵が角にいる」
カエサルの顎がわずかに上がる。
怒りではない。
覚悟だ。
「……来るな」
カエサルが言う。
「もう、来る」
アウレリアの声が奥から飛ぶ。
飛ぶが、慌てない。
慌てない声が、家を回す。
「道具を先に揃える」
「逃げるか備えるかは、道具が揃ってから決めてもいい」
「道具がない判断は、ただの願いになる」
道具。
それは剣ではない。
紙。
印章。
金。
鍵。
服。
馬。
水袋。
匂いを消す油。
それら全部が、逃亡にも備えにも使える。
ティロが紙をまとめ直しながら言った。
「名簿もいる」
「どの家人が、どこに親類がいるか」
「誰が走れるか」
「誰が黙れるか」
ルフスが息を吐く。
「黙れるか、って何だよ」
ティロが笑わないで答える。
「必要なんだよ」
「ローマでは」
*
夕方。
一通の報が入る。
報はいつも、封蝋と足音で先に分かる。
走ってきた者の息が荒い。
荒いのに、声が小さい。
小さいのが怖い。
「上陸しました」
使者が言う。
「スッラ軍が」
「イタリアへ」
「進軍してきます」
部屋の空気が一度だけ止まる。
止まってから、動き出す。
動き出すのは恐怖ではない。
手順だ。
アウレリアが言う。
「戸を二重に」
「灯りを外に漏らさない」
「金を分ける」
「紙を焼くものと残すものを分ける」
ティロが即座に動く。
印章を袋へ。
手紙を三つに分ける。
宛先別。
使い手別。
焼却用。
保管用。
カエサルは剣に手を伸ばさない。
伸ばすのは机の上の地図だ。
地図に指を置く。
置いた指が震えない。
震えないように、呼吸を数える。
「ルフス」
カエサルが言う。
「外の様子を見てくれ」
ルフスは頷いた。
頷いてから、一瞬だけためらう。
ためらいは恐怖ではない。
戻ってこられるかの計算だ。
「わかった」
ルフスは言う。
「戻る」
外へ出る背中が、少し硬い。
硬い背中が、今のローマの背中だった。
夜が近づく。
戸締りの音が増える。
密告の噂が増える。
落書きが増える。
そして消える。
消える速さだけが、やけに揃っている。
氷の名が、街を冷やしていく。
スッラ。
それはもう、遠い戦場の名ではない。
生活の名になった。
ローマの夜に、氷が張り始めていた。




