帰還の風(確報)
東方でスッラが勝ちを重ねている。
その報せはしばらく「噂」の形でローマに漂っていた。
だがその夜、噂は噂の顔をやめた。
確定情報になった。
風向きが変わる時、ローマは一斉に別々の顔をする。
祝う者がいる。
怯える者がいる。
計算する者がいる。
同じ通りを歩いているのに、目だけが別の場所を見ている。
フォルムでは杯を掲げる声が上がった。
「ローマの勝利だ」と叫ぶ。
勝利の名の下で、誰が勝ったのかは曖昧にされる。
別の場所では戸が閉まる音が増えた。
灯りが早く消える。
市場では値段が変わる。
金は嘘をつかないから、誰が怯え、誰が期待しているかが露骨に出る。
カエサルは屋敷の奥で、その報せを受けた。
封蝋の硬さが、言葉より先に確かさを告げる。
アウレリアが封を割る。
目だけが動き、顔は動かない。
そして短く言った。
「確報よ」
「スッラは帰る」
その瞬間、カエサルの体のどこかが冷えた。
昔の痛みが、遅れて戻ってくる。
アリーナで。
あの男は笑いながら足を出した。
躊躇も怒りもない蹴りだった。
痛みよりも、無関心が刺さった。
人を傷つけることに理由が要らない目。
あの目が、ローマへ戻ってくる。
「……帰還の風か」
ティロが小さく言う。
「やばい風だな」
カエサルは頷く。
頷きながら、笑顔の作り方を忘れたままだった。
*
夜。
屋敷が静まり、家人の足音が遠のいた頃。
コルネリアが窓辺にいた。
窓の外を眺めている。
眺めているのに、見ていない。
肩が小さく揺れている。
泣いていた。
カエサルは扉の前で一度だけ息を止めた。
声をかければ崩れる。
黙れば孤独が増える。
その間の距離を探す。
机の端に置かれた布を取る。
父の衣の切れ端ではない。
ただの白い布だ。
ただの布だから、今は使える。
カエサルは音を立てずに近づいた。
布を差し出す。
「……これ」
コルネリアは振り向かなかった。
けれど布を受け取った。
指先が冷たい。
「ごめんなさい」
コルネリアが言う。
「泣くつもりでは……」
「泣けばいい」
カエサルが言う。
「誰も見てない」
コルネリアは窓の外へ目を戻した。
灯りの点が、遠くにいくつも揺れている。
街の灯りだ。
祝祭の灯りと、見張りの灯りが混じっている。
「父がいなくなって」
コルネリアが小さく言う。
「それでも、ローマは止まらない」
「父は、止めようとして……」
言葉が途切れる。
途切れた場所で、涙がまた落ちる。
カエサルは窓の外を見た。
見えない敵を見ているふりをする。
ふりをしないと、自分の中の穴が見えてしまう。
「俺も父が死んだ」
カエサルが言う。
「死んで、椅子が空いた」
「空いたら、いろんな手が伸びた」
コルネリアがかすかに頷く。
同じだと言われたくないのに、同じだと分かってしまう頷きだ。
「私たちの結婚は」
コルネリアが言う。
「守りになりますか」
「それとも、標的になりますか」
窓の外の灯りが揺れる。
揺れは風のせいだ。
風は、帰還の風だ。
カエサルは一拍だけ黙った。
優しい言葉を探すより、残る言葉を置くべきだと思った。
「過ぎたことは、しょうがない」
カエサルが言う。
「変えられない」
「だから、何とかするしかない」
コルネリアが布で目元を拭く。
拭いても、涙の理由は消えない。
「何とか、って」
コルネリアが言う。
「どうやって」
カエサルは窓辺に立つ彼女の肩へ手を置いた。
肩が小さく震えている。
震えが止まらないのに、崩れない。
崩れないことが、彼女の強さだ。
「守る」
カエサルが言う。
「家を」
「お前を」
「俺の選んだものを」
コルネリアは振り向いた。
目が赤い。
赤いのに、目は逸れない。
「……怖いです」
「でも」
「あなたが、嘘をつかないなら」
カエサルは答えの代わりに、抱きしめた。
強く。
強すぎないように。
逃げ道を残す抱きしめ方ではなく、居場所を作る抱きしめ方で。
コルネリアの息が胸に当たる。
当たるたびに、氷の下で水が動く。
冬が戻るなら、火を消さないでいなければならない。
火は言葉だけでは保てない。
手で、体温で、守るものだと思った。
コルネリアがカエサルの背に腕を回す。
その力が、同盟の返事みたいに確かだった。
窓の外で風が鳴った。
布が揺れる。
灯りが揺れる。
揺れの中で、二人だけが動かない。
動かないことで、今夜だけは世界を止められる気がした。
そして灯りは、少しずつ低くされた。
言葉はそれ以上、必要なかった。
*
同じ夜。
アウレリアは寝ていなかった。
眠れないのではない。
眠る前にやるべき順序がある。
資金を分ける。
外に逃がす分と、家の中に残す分を分ける。
避難先の候補を確認する。
鍵を持つ者を決め直す。
連絡網を更新する。
使いの足を二重にする。
一つが途切れても、もう一つが繋がるようにする。
帳簿の頁をめくる音が、夜の中で乾いて響く。
乾いた音ほど、怖い時に頼りになる。
頼りになるものは、感情を挟まないからだ。
アウレリアは蝋板を閉じた。
閉じた瞬間、風が戸を叩いた。
戸は揺れない。
揺れないように、すでに塞いである。
帰還の風が、家の外を舐めていく。
ローマの空気が、ゆっくり冷えていく。
氷が戻る。
今度は確報として。




