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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第20章 カエサルの過去 ~青年期Ⅱ~

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帰還の風(確報)

東方でスッラが勝ちを重ねている。

その報せはしばらく「噂」の形でローマに漂っていた。

だがその夜、噂は噂の顔をやめた。

確定情報になった。


風向きが変わる時、ローマは一斉に別々の顔をする。

祝う者がいる。

怯える者がいる。

計算する者がいる。

同じ通りを歩いているのに、目だけが別の場所を見ている。


フォルムでは杯を掲げる声が上がった。

「ローマの勝利だ」と叫ぶ。

勝利の名の下で、誰が勝ったのかは曖昧にされる。

別の場所では戸が閉まる音が増えた。

灯りが早く消える。

市場では値段が変わる。

金は嘘をつかないから、誰が怯え、誰が期待しているかが露骨に出る。


カエサルは屋敷の奥で、その報せを受けた。

封蝋の硬さが、言葉より先に確かさを告げる。

アウレリアが封を割る。

目だけが動き、顔は動かない。

そして短く言った。


「確報よ」

「スッラは帰る」


その瞬間、カエサルの体のどこかが冷えた。

昔の痛みが、遅れて戻ってくる。

アリーナで。

あの男は笑いながら足を出した。

躊躇も怒りもない蹴りだった。

痛みよりも、無関心が刺さった。

人を傷つけることに理由が要らない目。

あの目が、ローマへ戻ってくる。


「……帰還の風か」

ティロが小さく言う。

「やばい風だな」


カエサルは頷く。

頷きながら、笑顔の作り方を忘れたままだった。



夜。

屋敷が静まり、家人の足音が遠のいた頃。

コルネリアが窓辺にいた。

窓の外を眺めている。

眺めているのに、見ていない。

肩が小さく揺れている。

泣いていた。


カエサルは扉の前で一度だけ息を止めた。

声をかければ崩れる。

黙れば孤独が増える。

その間の距離を探す。


机の端に置かれた布を取る。

父の衣の切れ端ではない。

ただの白い布だ。

ただの布だから、今は使える。


カエサルは音を立てずに近づいた。

布を差し出す。


「……これ」


コルネリアは振り向かなかった。

けれど布を受け取った。

指先が冷たい。


「ごめんなさい」

コルネリアが言う。

「泣くつもりでは……」


「泣けばいい」

カエサルが言う。

「誰も見てない」


コルネリアは窓の外へ目を戻した。

灯りの点が、遠くにいくつも揺れている。

街の灯りだ。

祝祭の灯りと、見張りの灯りが混じっている。


「父がいなくなって」

コルネリアが小さく言う。

「それでも、ローマは止まらない」

「父は、止めようとして……」


言葉が途切れる。

途切れた場所で、涙がまた落ちる。


カエサルは窓の外を見た。

見えない敵を見ているふりをする。

ふりをしないと、自分の中の穴が見えてしまう。


「俺も父が死んだ」

カエサルが言う。

「死んで、椅子が空いた」

「空いたら、いろんな手が伸びた」


コルネリアがかすかに頷く。

同じだと言われたくないのに、同じだと分かってしまう頷きだ。


「私たちの結婚は」

コルネリアが言う。

「守りになりますか」

「それとも、標的になりますか」


窓の外の灯りが揺れる。

揺れは風のせいだ。

風は、帰還の風だ。


カエサルは一拍だけ黙った。

優しい言葉を探すより、残る言葉を置くべきだと思った。


「過ぎたことは、しょうがない」

カエサルが言う。

「変えられない」

「だから、何とかするしかない」


コルネリアが布で目元を拭く。

拭いても、涙の理由は消えない。


「何とか、って」

コルネリアが言う。

「どうやって」


カエサルは窓辺に立つ彼女の肩へ手を置いた。

肩が小さく震えている。

震えが止まらないのに、崩れない。

崩れないことが、彼女の強さだ。


「守る」

カエサルが言う。

「家を」

「お前を」

「俺の選んだものを」


コルネリアは振り向いた。

目が赤い。

赤いのに、目は逸れない。


「……怖いです」

「でも」

「あなたが、嘘をつかないなら」


カエサルは答えの代わりに、抱きしめた。

強く。

強すぎないように。

逃げ道を残す抱きしめ方ではなく、居場所を作る抱きしめ方で。


コルネリアの息が胸に当たる。

当たるたびに、氷の下で水が動く。

冬が戻るなら、火を消さないでいなければならない。

火は言葉だけでは保てない。

手で、体温で、守るものだと思った。


コルネリアがカエサルの背に腕を回す。

その力が、同盟の返事みたいに確かだった。


窓の外で風が鳴った。

布が揺れる。

灯りが揺れる。

揺れの中で、二人だけが動かない。

動かないことで、今夜だけは世界を止められる気がした。


そして灯りは、少しずつ低くされた。

言葉はそれ以上、必要なかった。



同じ夜。

アウレリアは寝ていなかった。

眠れないのではない。

眠る前にやるべき順序がある。


資金を分ける。

外に逃がす分と、家の中に残す分を分ける。

避難先の候補を確認する。

鍵を持つ者を決め直す。

連絡網を更新する。

使いの足を二重にする。

一つが途切れても、もう一つが繋がるようにする。


帳簿の頁をめくる音が、夜の中で乾いて響く。

乾いた音ほど、怖い時に頼りになる。

頼りになるものは、感情を挟まないからだ。


アウレリアは蝋板を閉じた。

閉じた瞬間、風が戸を叩いた。

戸は揺れない。

揺れないように、すでに塞いである。


帰還の風が、家の外を舐めていく。

ローマの空気が、ゆっくり冷えていく。

氷が戻る。

今度は確報として。

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