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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第19章 カエサルの過去 ~青年期Ⅰ~

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棚卸し

キンナの死から、しばらく。

ローマは泣き方を忘れたふりをした。

忘れたふりの間に、力学だけが先に変わっていく。

昨日の味方が今日の計算を始める。

昨日の敵が今日の挨拶を覚える。

その早さが、いちばん怖い。


いくつかの家では、話題が一つに収束していた。

スッラにつくか。

キンナの後釜カルボにつくか。

あるいは、そのどちらにも見えない位置に立てるか。

立てるなら、どれだけの金で立てるか。

どれだけの縁で立てるか。


フォルムの噂は、内容より語り口が変わった。

怒りではなく算段になる。

正義ではなく保険になる。

言葉の温度が下がる。

下がった言葉は、手袋みたいに滑る。


ユリウス家でも、会議は続いた。

卓の上には蝋板が並ぶ。

地図。

名簿。

支出の記録。

借りの返済計画。

護衛の交代表。

裏口の鍵の数。

逃げ道の候補。

隠れ家の候補。

家人の親類縁者の所在。


カエサルは主の席に座り、息を吐いた。

座るほど、家の重さが自分の肩に乗る。

乗ったまま逃げられない。


「家を守る」

カエサルが口にする。

「そのために、何を決めるべきだ」


ティロが横で頷く。

目の下に影がある。

影があるのに、口だけは軽くしようとする。


「まず連絡先だな」

「連絡先が死ぬと、家が死ぬ」


カエサルは蝋板を押さえた。

連絡先。

誰に文を出せるか。

誰の使者なら玄関で止めるか。

誰の名なら“会う”に変わるか。

誰の名なら“会わない”で通るか。


そこから資金。

現金。

換金できるもの。

借りの整理。

支払いの順番。

家の中に置く金。

外に逃がす金。

いつ、どこで、どう分けるか。


次に隠れ家。

一つでは足りない。

一つは必ず塞がれる。

塞がれる前提で二つ、三つ。

鍵を持つ者。

案内できる者。

火を起こせる者。

水を確保できる者。


そして味方の棚卸し。

味方が誰かは、名簿の上では決まらない。

味方は利で動く。

味方は恐れで動く。

味方は過去で動く。

その三つの比率を数える。


カエサルは指でこめかみを押した。

剣の才は数で測れる。

だが政治の才は、数えているうちに数が変わる。


そこへアウレリアが来る。

来るというより、家の機構の一部として現れる。

彼女の手には帳簿がある。

帳簿の角は擦り切れている。

擦り切れているのに、字は乱れていない。


「棚卸しをするなら、順番がある」

アウレリアが言う。

「恐れを先に数える」

「次に金」

「最後に縁」


カエサルが母を見る。


「縁が最後?」


「縁は増えるから」

アウレリアは即答した。

「増えるものを先に数えると、気が大きくなる」

「気が大きくなると、抜けができる」


抜け。

アウレリアがいちばん嫌う言葉だ。

抜けは敵の入口になる。

敵が入口を見つける前に、こちらが塞ぐ。

それが実務の戦い方だ。


アウレリアは帳簿を開き、淡々と読み上げ始める。

誰が来た。

誰が来ていない。

誰が弔問の後に一度離れた。

誰が二度目の挨拶を寄越した。

誰が贈り物を増やした。

誰が贈り物を減らした。

誰が“同情”を見せた。

誰が“確認”をした。


「同情は安い」

アウレリアが言う。

「確認は高い」


カエサルは黙って聞いた。

黙ることで、母の手が見える。

見えてくる。

この家は、母の実務で立っている。

父の席が空いてからではない。

ずっと前から。


「連絡先は三つに分ける」

アウレリアが言う。

「一つはローマの内側」

「一つは外側」

「一つは、どちらにも属さない者」


「どちらにも属さない?」

カエサルが聞く。


「金で動く者」

アウレリアが言う。

「恥で動く者は遅い」

「利で動く者は速い」

「速い者は、危機に間に合う」


ティロが小さく息を吐く。


「実務の鬼だな」

「褒めてないだろ」

カエサルが小声で返す。

「褒めてるよ」

ティロは苦く笑う。


コルネリアは会議の端で聞いていた。

父の名が消えた後の世界で、自分が何を支えに立つか。

その答えを、言葉ではなく手順で見ている。

目が落ち着いている。

落ち着いているのに、指先が時々、膝の布を掴む。

掴む力が強くなる瞬間がある。


カエサルはそれに気づき、視線を逸らさずに言った。


「ここはお前の家だ」


コルネリアは一度だけ頷いた。

頷きが小さい。

小さいのに、折れない。


会議は夕方まで続く。

続いている間に、ローマの空気がまた冷える。

冷えるのは季節ではない。

確定が増えるからだ。


「翌年にはスッラが帰ってくる」

それが既定路線になっていく。

誰も断言しない。

断言しないのに、誰も疑わない。

疑わないからこそ、全員が準備を始める。


準備は静かだ。

静かな準備ほど、街を冷やす。

冷えた街は、氷みたいに音を立てずに割れる。


夜。

家が静まった頃、カエサルは一人で居間の椅子を見た。

父の椅子。

そして自分の椅子。

その隣に、コルネリアの席ができている。

席があるだけで、守る範囲が増える。

守る範囲が増えたことを、後悔することもできる。


だが、カエサルは後悔しなかった。

後悔は楽だ。

楽な言葉は、責任を薄める。


「引き受けた」

カエサルは心の中で言った。

「俺が選んだ」

「だから守る」


その時、遠くで足音がした。

夜の足音。

急がない足音。

だが、止まらない足音。


玄関の者が封蝋の手紙を持ってくる。

封は新しい。

蝋の光が冷たい。


アウレリアが受け取り、封を確かめる。

顔は変わらない。

変わらないまま、家の灯りだけが少し暗くなる。


「軍の噂よ」

アウレリアが言う。

「東からではない」

「海の向こうでもない」

「……戻ってくる足音だ」


カエサルは息を吸った。

吸った息が冷える。

冬の氷が、春を押しのけて戻ってくる。


ローマの氷が戻る。

音を立てずに。

確実に。

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