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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第19章 カエサルの過去 ~青年期Ⅰ~

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波の外側

夕方。

ユリウス家の玄関に、キンナの使者ではなく本人が立った。

その立ち方が、すでに出発前の立ち方だった。

鎧ではないのに、外套の影が硬い。

家の者が道を空ける。

空け方が、歓迎ではなく通過のそれになる。


キンナは通された。

アウレリアが応対し、言葉少なに席を整える。

キンナは礼を尽くしすぎない。

尽くしすぎれば、弱さに見える。

弱さは今のローマでは刃になる。


「時間は取らない」

キンナが言った。

「出る前に、挨拶だ」


コルネリアが現れる。

娘としての顔に戻ろうとしながら、戻りきれない顔で。

それでも背筋は崩れない。


「父上」


キンナは一度だけ頷く。

頷きの角度が、父ではなく指揮官のそれだった。


「顔を見ておきたかった」

「それだけだ」


それだけ、の一言が重い。

それだけのために来た、という重さだ。


コルネリアは笑わない。

泣かない。

ただ目を逸らさない。


「無事に」

コルネリアが言った。


キンナは答えない。

答えないのが答えだった。


キンナは次にカエサルへ視線を向ける。

視線の置き方が、家族ではなく同盟の置き方だ。


「娘は頼んだ」


カエサルは礼をして言う。


「無論わかっております」


キンナは一瞬だけ口元を動かした。

笑みではない。

確認だ。


「頼んだぞ」


同じ言葉をもう一度置いて、キンナは立った。

立った背中が、もう海へ向かっている。

玄関の外に消えるまで、足音が乱れない。

乱れない足音ほど、帰ってこない気がした。



それからしばらく。

ローマは落ち着いたふりを続けた。

落ち着いたふりの間に、噂は確度を増す。

確度が増えれば、息が浅くなる。

息が浅くなれば、笑いが薄くなる。


ある日。

ユリウス家に一報が届いた。

封は粗い。

運び手の顔が白い。

言葉が先に来ず、喉が先に鳴る。


アウレリアが受け取る。

封を切る。

目を走らせる。

そして一拍だけ遅れて、紙を置いた。


「……キンナが死んだ。」


その言い方が、あまりに平らだった。

平らであることで、内容の不条理が立つ。


カエサルは息を止めた。

止めたのに、胸の奥だけが勝手に動く。

耳が熱くなる。

目の前が少し遠くなる。


「死んだ?」


自分の声が自分の声に聞こえない。

確認の言葉が、否定に見える。


アウレリアは頷いた。

頷きは一度だけ。

二度頷けば、感情が漏れる。


コルネリアはそこにいた。

そこにいて、崩れない。

崩れないのに、手が微かに震えている。

杯を持っていないのに、指先だけが震えている。


「……父が」


声が細い。

細いのに、泣かない。

泣けば戻らないものが戻らないと確定する。

彼女はまだ確定させたくない顔をしていた。


カエサルは、喉の奥で乾いた笑いを噛み殺した。

笑えるはずがない。

なのに、あまりにあっけなくて、体が勝手に反応する。


背中が空になる感覚が来た。

後ろ盾が消える。

背中にあったはずの壁が、突然なくなる。

そして次の瞬間、波に飲み込まれる感覚が来る。

戻る岸が見えない。

戻るつもりでいたのに、戻れない側へ押し出される。


「……これで」

カエサルが絞り出す。

「俺たちは、どこに立つ」


ティロが一歩前に出る。

声は低い。


「もう立ってる」

「立たされてる」


アウレリアが言う。


「今は泣かない」

「泣くのは夜でいい」

「まず、家を回す」


その言葉が、鋲みたいに床へ打たれる。

床が固定される。

固定されると、倒れずに済む。

倒れずに済むから、痛みが後から来る。


コルネリアは一度だけ深く息を吸った。

吸って、吐いた。

吐いた息が揺れない。

揺れない息のまま、彼女は言った。


「……聞かせてください」

「何が起きたのか」



時はさかのぼる。

キンナがローマを出た日からの話だ。

軍はアドリア海を越え、イリュリアへ渡るためにアンコーナへ向かった。

海が近づくほど、兵の顔が硬くなる。

硬くなるのは恐れだけではない。

嫌悪だ。


彼らの多くは、スッラの軍と同じ軍の匂いを知っていた。

元同僚。

元戦友。

同じ鎧の音。

同じ掛け声。

それと戦うことが、兵には耐えがたい。


「なぜ俺たちが」

「なぜ同じローマ人と」

「東方へ行けばよかったじゃないか」


不満は囁きから始まる。

囁きは集まると声になる。

声は集まると腕になる。

腕は集まると暴力になる。


アンコーナの港はざわついていた。

船が待つ。

板が渡される。

荷が積まれる。

命令が飛ぶ。

飛ぶ命令に、返事が遅れる。

遅れる返事の間に、空気が腐る。


キンナは押した。

押すしかない。

待てばスッラが来る。

待てばローマが割れる。

割れる前に、こちらから形を作る。


「乗れ」

「行軍だ」

「これは命令だ」


命令が強くなるほど、兵は顔を背ける。

背けた顔が集まる。

集まった背け方が、群れの意志になる。


「嫌だ」

誰かが言った。

「行かない」

別の誰かが言った。

「帰る」

さらに別の誰かが言った。


怒号が上がる。

石が飛ぶ。

槍の柄が揺れる。

隊列がほどけ、ほどけたまま固まる。

固まりは、もう軍ではない。

固まりは群衆だ。


キンナは前に出た。

止めるのではなく、押し切るために。

押し切れなければ、全てが終わると知っている目で。


「戻るな」

「戻れば、スッラに踏まれる」

「今、海を越える」


その言葉が届く前に、腕が出た。

誰の腕かは見えない。

群衆の腕は、個人の腕ではなくなる。


最初の一撃が入る。

次の一撃が重なる。

止める者がいない。

止めようとした者も、引き戻される。


キンナは抵抗した。

だが抵抗は、英雄の抵抗ではない。

味方に囲まれた抵抗は、逃げ道がない。


倒れる。

血が落ちる。

港の板に赤が広がる。

赤は海風で乾かない。

乾く前に、さらに踏まれる。


そして、あっけなく終わる。

終わり方が、あまりに不条理で、誰も勝った顔をしない。

勝ったのに勝っていない。

殺したのに守れていない。

ただ「戻れないこと」だけが残る。


波の音だけが、いつも通りに戻ってくる。

港の騒ぎは、波の前では小さい。

小さいのに、ローマの運命を動かす。


キンナはそこで落命した。

敵ではなく、自軍の手で。

剣ではなく、群れで。

そしてその知らせが、遅れてローマへ届いた。


戻れない波が、今度はカエサルたちの足元へ来る。

静かに。

確実に。

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