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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第19章 カエサルの過去 ~青年期Ⅰ~

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噂が帰ってくる

春の匂いが、ローマの石に戻り始めていた。

戻り始めているのに、人の顔は硬いままだった。

東方の戦況が確定した。

スッラが勝った。

そして帰国へ向かうという話が、噂ではなくなった。


噂が噂でなくなる瞬間は、いつも静かだ。

誰も大声で言わない。

言わないのに、全員の歩幅が変わる。

店の閉め方が早くなる。

扉の閉まる音が増える。

灯りが早く消える。


ユリウス家でも、会議が設けられた。

卓の上に蝋板と書簡が積まれる。

地図が広げられる。

護衛の交代表。

食料の在庫。

逃げ道の候補。

それらが「もしも」の形ではなく「いつ」の形で並び始める。


カエサルは主の席に座っていた。

座り慣れたくないのに、座り方だけは慣れていく。

慣れが、怖い。


ティロが横で低い声で言う。


「もう噂じゃないな」

「……うん」

「帰ってくるってさ」

「帰ってくる」


その二度目の繰り返しが、重かった。


アウレリアは言葉を増やさない。

増やす代わりに、順序を増やす。

誰がどこを見るか。

誰がどこを閉めるか。

誰を通すか。

誰に会わないか。

家が戦う時のやり方は、剣ではなく段取りだ。


コルネリアは、会議の端にいた。

妻としてそこにいるのに、娘としてもそこにいる目をしていた。

父キンナの行く末が気になる。

気になるという言葉では足りない。

胸の底が引っ張られている。


コルネリアが小さく尋ねる。


「父は……どうするのでしょう」


その声が震えていない。

震えていないのが、むしろ痛い。

震えを出す前に、形を守ってしまう。

それが彼女の強さで、弱さでもある。


カエサルは答えようとして、答えが見つからなかった。

家を守るためにどうするべきか。

逃げる。

備える。

沈黙する。

どれも正しく見える。

どれも間違いに見える。


沈黙は安全に見える。

だが沈黙は、相手に好きな物語を与える。

備えは強さに見える。

だが備えは、敵に先に数えられる。

逃げは卑怯に見える。

だが逃げは、生き延びるための最短でもある。


カエサルは手を組んだ。

指先が冷えていた。

主の席は、体温を奪う。


「俺は……」

カエサルが言いかけて止まる。


ティロが、抑えた声で続けた。


「逃げるのも、備えるのも、黙るのもさ」

「全部、後から説明がいるよな」

「ローマは説明で殺す」


コルネリアのまつ毛が一度だけ揺れた。

父の名が、その説明の中心になるかもしれない。

その想像が、彼女の呼吸を少しだけ浅くする。


アウレリアがそこで、淡々と口を開いた。


「説明は後でいいの」

「今は家を回す」

「回して、生きる」


カエサルが母を見る。

母はカエサルではなく、卓の上の順序を見ている。

目線が家の外へ飛ばない。

飛ばないことで、家の中を守っている。


「逃げるなら逃げるで、準備がいる」

「備えるなら備えるで、抜けを塞ぐ」

「沈黙するなら沈黙するで、会わない相手を決める」


アウレリアは言い切った。

そして最後に、カエサルを見る。


「あなたはもう、答えを“探す側”じゃない」

「答えを“決めて残す側”よ」


残す。

紙に残す。

人に残す。

家に残す。

その残り方が、次の刃を呼ぶ。


カエサルは息を吐いた。

息を吐いて、ようやく頷ける。


「……わかった」

「今日、決める」


コルネリアがそれを見て、ほんの少しだけ肩を下ろした。

夫が決めるという事実が、怖さを減らすのではない。

怖さの形が定まる。

定まることで、耐えられる。


アウレリアは、コルネリアへ視線を向ける。

優しさの言葉ではなく、事実の言葉を渡した。


「コルネリア」

「あなたの父がどう動いても、あなたはここに居場所がある」

「ここはユリウス家で、あなたの家よ」


コルネリアは一礼した。

礼の角度が乱れない。

乱れないまま、目が少しだけ潤む。

しかし涙は落ちない。

落とせば、外へ漏れるからだ。


カエサルはその横顔を見て、後々まで残る形を覚えた。

声を荒げない強さ。

崩れない背中。

母も妻も、同じやり方で家を守っている。



同じ頃。

キンナの屋敷では、会議はもう会議の形をしていなかった。

決裁の連続だった。

徴兵。

資金。

同盟。

宣伝。

脅し。

懐柔。

手紙の束が閉じられ、次の束が開かれる。


スッラは和平にも応じない。

応じないということは、帰ってきて終わらせるつもりだ。

終わらせるのは戦だけではない。

名前も終わる。

家も終わる。


キンナは目の下の影を隠さず、隠さないまま言った。


「攻め込む」


側近が息を呑む。

将兵の疲弊は目に見えている。

不満も溜まっている。

給金も遅れがちだ。

それでも、待てばスッラが上陸する。

待つのは、処刑台を整えるのと同じになる。


「アドリア海を越える」

「イリュリアへ渡る」

「先に足場を作る」


キンナの声は落ち着いていた。

落ち着きが、命令を命令以上のものにする。

逆らう理由を削る落ち着きだ。


軍が動き出した。

武具の音が街の音に混じる。

荷車が軋む。

槍の束が揺れる。

旗が畳まれ、また広げられる。


だが、空気が妙に乾いていた。

歓声が少ない。

笑いがない。

兵は前を向いているのに、目が遠い。

遠い目は、疲れている目だ。


誰かが小さく言った。


「今さら海か」


別の誰かが、もっと小さく言った。


「帰ってくるのはスッラだぞ」


不満は囁きで増える。

囁きは数えにくい。

数えにくいものほど、爆ぜやすい。


キンナはそれでも軍を動かした。

動かすしかない。

動かさなければ、動かされる。


海辺が近づく。

船が見える。

板が渡される。

兵の列が伸びる。

伸びる列の端で、誰かの顔が歪んだ。


そして、その歪みが合図みたいに広がり始めた。

キンナは気づく。

気づいても、顔を変えない。

変えないまま、足を止めない。


しかし——。

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