家の立ち上げ
朝。
結婚の翌日から、ユリウス家は「いつも通り」に戻ろうとしていた。
戻ろうとすることが、立ち上げだった。
家は悲しみで止まり、祝祭で揺れ、そして何事もなかったように回り始める。
回り始めることでしか、生き残れない。
コルネリアは早く起きていた。
新しい家の廊下の音を覚えるみたいに、足音を小さくして歩く。
家人に挨拶をし、返礼の言葉を選ぶ。
選んだ言葉を、置く場所まで選ぶ。
それは媚びではなく、武装だった。
アウレリアは台所の火と帳簿を見てから、コルネリアを見た。
泣くでも笑うでもない顔で、ただ確認する目を向ける。
そして短く言った。
「ようこそ」
それだけで充分だった。
長い言葉は、時に試す言葉になる。
短い言葉は、受け入れの形になる。
ミノルとマイオスは、早かった。
女の子同士の距離は、政治の距離より速い。
廊下で鉢合わせた瞬間から、もう味方を作り始める。
「姉さん、コルネリアって呼んでいい?」
ミノルが言う。
「だめって言わないでね」
コルネリアは小さく笑った。
笑い方が、家の中の笑い方になっている。
「もちろん」
マイオスがすぐに続ける。
「ねえ、兄さんってさ」
「怒ると眉がこうなるよね」
「あと、考えると黙る」
ミノルが頷く。
「黙るし、すぐ難しい顔する」
「でも、たまに優しいふりする」
コルネリアが口元を押さえる。
笑いを隠す仕草が、妙に自然だった。
「優しいふり、ですか」
「……たしかに、そういうところが」
カエサルはその場で固まった。
居場所のない目をして、姉妹と妻の輪を見ている。
剣の稽古より怖いものが、この家には増えていた。
「やめろ」
カエサルが言う。
「俺の話で盛り上がるな」
ミノルがすぐ返す。
「盛り上がってない」
「確認してるだけ」
マイオスが追い打ちをかける。
「そうそう」
「新しい家族の共通点探し」
コルネリアが、無邪気な顔で頷いた。
「共通点があると、仲良くなりやすいと聞きました」
カエサルは言葉を失った。
その瞬間、背後からティロの声が飛ぶ。
「元気出せよ」
「女の子ってそういうもんだ」
カエサルが振り返る。
「お前、助けろ」
「助けてるじゃん」
ティロは肩をすくめる。
「お前が困ってるって顔、今いちばん平和だぞ」
カエサルは反論できず、杯の水を飲んだ。
水が喉を通っても、頬の熱は引かなかった。
アウレリアがそれを見て、わずかに口元を緩めた。
緩めたのに、言葉は増やさない。
この家のやり方で、受け入れていた。
*
昼。
家の裏手では、使用人たちの声が小さく弾んでいた。
弾んでいるのは祝祭の名残ではない。
噂が、人を軽くする。
「キンナの娘だって」
「やっぱり、政治よね」
「若い奥様、どういう人なのかしら」
「ユリウス家も、とうとう――」
言い終える前に、誰かの舌が止まる。
空気が変わる。
気配が増える。
コルネリアが、そこにいた。
たまたま通りかかっただけだ。
聞こうとして聞いたわけではない。
でも聞こえてしまった。
聞こえたものは、なかったことにはできない。
使用人たちが膝を折りかける。
慌てて頭を下げる。
言い訳を探す。
コルネリアは怒鳴らなかった。
怒鳴れば、この家の空気が割れる。
割れた空気は、すぐ外へ漏れる。
漏れた噂は、倍になって戻る。
コルネリアは息をひとつ整えた。
そして、声の高さを変えずに言った。
「噂は、止められないものです」
「けれど、選べます」
「どんな噂を口にするか」
「どんな言い方をするか」
使用人のひとりが、固まったまま頷く。
コルネリアは続けた。
「私はこの家の者です」
「この家のことを、悪く言われたくはありません」
「私のことなら、まだいいです」
「でも、家のことは――やめてください」
怒っていない声だった。
怒っていないのに、逃げ場がない声だった。
それが一番怖い。
声を荒げない強さは、家を守る。
コルネリアはそれ以上言わず、通り過ぎた。
裾の音が小さい。
音が小さいほど、言葉が残る。
後ろで誰かが小さく息を吐いた。
恥ずかしさと、少しの尊敬が混じった吐息だった。
*
夕方。
カエサルは廊下の曲がり角でコルネリアとすれ違った。
いつもより、口元が柔らかい。
柔らかいのに、目が疲れている。
「大丈夫か」
カエサルが言う。
コルネリアは一瞬だけ迷い、すぐに答える。
「大丈夫です」
「慣れます」
カエサルは微笑んだ。
笑い方が、祝祭の笑いではない。
家の笑いだ。
「慣れるよ」
「ここは、そういう家だ」
コルネリアは小さく頷いた。
頷いて、少しだけ歩幅を緩めた。
その緩みが、家に馴染む最初の形に見えた。
*
同じ頃。
キンナは娘の婚礼の余韻に息をつく間もなく、机に向かっていた。
机の上にあるのは祝辞の文ではない。
名簿。
資金の割り当て。
同盟の書状。
徴兵の手配。
宣伝の言葉。
噂を流す順序。
噂を止める順序。
スッラ帰還の噂は、もはや噂ではなくなりつつある。
確度が上がるほど、準備は荒くなる。
荒くなるほど、現場は擦り切れる。
側近が報告を持ってくる。
声が乾いている。
「兵が不満を漏らしております」
「給金が遅れていると」
「家族が不安だと」
キンナは顔色を変えない。
変えないことで、柱を作る。
柱が揺れれば、全員が倒れる。
「遅れは埋める」
キンナが言う。
「口は塞がない」
「塞げば爆ぜる」
「疲弊は、次の勝利で上書きする」
側近が躊躇した。
「……勝利が来る前に」
「崩れる者が出るかもしれません」
キンナは目を上げた。
その目は疲れている。
疲れているのに、笑う。
「崩れる者は出る」
「だから数える」
「数えて、補う」
「数えて、捨てる」
言葉は静かだった。
静かな言葉ほど、残酷はよく響く。
窓の外で、遠くの街がざわめく。
結婚の祝祭が消えた後の街のざわめきは、いつも薄い恐怖を含む。
その恐怖が、将兵の不満と混じり、灰色の空気になっていく。
キンナは蝋板を閉じた。
閉じる音が、決裁の音だった。
「準備を続けろ」
「スッラが戻る前に、戻れない形を作る」
娘の結婚は終わった。
しかし戦の準備は、始まったままだった。




