ため息のつく夜に
夜。
キンナの屋敷から戻ると、ユリウス家の玄関の灯りがまだ落ちていなかった。
外の空気は冷えているのに、家の中の匂いは落ち着いている。
落ち着いているのが、逆に怖い。
アウレリアが出迎えた。
外套の埃を払わせるでもなく、ただ目だけで体の無事を確かめる。
「どうだった?」
カエサルは靴紐をほどきながら答える。
「普通だった」
アウレリアはそれ以上の相槌を急がない。
急がないのが、アウレリアのやり方だった。
答えを“引き出す”のではなく、答えが勝手に出てくるまで待つ。
カエサルは結局、自分から言った。
「キンナに言われた」
「娘と結婚しないかって」
アウレリアの眉がわずかに動く。
それだけで、聞いたことが分かる。
「社交辞令もあるかもしれない」
「でも、たぶん政略の意味もある」
アウレリアは短く言った。
「そう」
その一言が、カエサルの胸に引っかかった。
もっと何か言うと思っていた。
怒るでも、笑うでも、止めるでも。
どれでもいいから、母の“意見”が欲しかった。
「……それだけ?」
「何にも言わないのか?」
アウレリアは、台所の火が消えているのを確かめるように視線を流し、それからカエサルを見た。
「言ったところで、それは私の意見の押し付けになる」
「決裁はあなたにある、と言ったでしょ」
「結婚となれば、なおさら」
短い。
端的で、逃げ道がない。
逃げ道がないのに、突き放してはいない。
背中にいる。
それだけを守る言い方だった。
カエサルは返事ができず、ただ頷いた。
頷いた瞬間、椅子の冷たさが頭の奥で鳴った。
「休みなさい」
「明日も来る」
アウレリアはそれだけ言って、家の奥へ戻っていった。
背中が小さく見えるのに、家全体がその背中で回っている気がした。
寝室。
カエサルは寝台に腰を下ろした。
息を吐くと、今日という一日がようやく体の外に出ていく。
出ていくはずなのに、胸の中に残るものがある。
最近になって、いくつものことが起きている。
父が死に、椅子が空き、紙が増え、名が増えた。
自分を取り巻く環境が、音を立てずに形を変えている。
形が変わるほど、決めなければならないことが増える。
ふと、コルネリアの顔が浮かんだ。
庭で手を取られた感触まで、遅れて戻ってくる。
彼女もまた、時代の渦に巻き込まれた被害者。
そう思ってしまう。
被害者だと決めてしまえば、少しだけ楽になるからだ。
でも、楽にならない。
頭から離れない。
政治の話として片づけようとしても、別の場所が勝手に疼く。
カエサルは目を閉じた。
結婚とは何だ。
同盟とは何だ。
家のためか。
自分のためか。
どちらでもない顔をして、どちらでもある結果が残る。
眠りはすぐには来なかった。
翌日。
珍しく穏やかな日だった。
風が強くなく、噂の声も今日は低い。
ローマが黙っている日ほど、裏で何かが動いている。
それでもカエサルは外に出た。
久々に、ティロとルフスに会った。
三人で顔を合わせると、家の重さが少しだけ薄くなる。
薄くなるのは、責任が消えるからじゃない。
責任の話をしなくてもいい時間が戻るからだ。
ルフスがカエサルの顔を見て言う。
「お前、なんか老けたな」
カエサルが睨む。
「お前もだろ」
ティロが笑う。
「二人とも老けてるって言われてんの気づけよ」
三人で歩く。
歩幅が合う。
この時ばかりは、ユリウス家の家長の席も、キンナの屋敷の灯りも、遠い。
剣の話をして、飯の話をして、くだらない噂を笑って切る。
カエサルは久しぶりに、肩の力が抜けるのを感じた。
別れ際。
夕方が近づいて、二人がそれぞれの帰り道に向きを変える。
ここで何も言わなければ、今日の軽さを持ち帰れる。
でも言わなければ、明日からまた重くなる。
カエサルは立ち止まり、二人の背中に声を投げた。
「なあ」
ティロとルフスが振り返る。
カエサルは一度、息を吸った。
言葉を選ぶのをやめる。
「俺、結婚しようと思う」




