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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第19章 カエサルの過去 ~青年期Ⅰ~

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宿題と招待状

夜。

ユリウス家の家は静かだった。

静かなのに、落ち着かなかった。

葬儀が終わって人の波が去っても、玄関の気配だけは消えない。

弔問、挨拶、陳情、探り。

父の死を「区切り」ではなく「隙」と見る目が、戸の外にまだ並んでいる。


カエサルは自室の机に蝋板を置き、同じ行を何度もなぞっていた。

キンナが残した宿題は短い。

民衆派につくか。

元老院側につくか。

文字にすれば短いのに、胸の中では石みたいに重い。


廊下の向こうの、父の椅子を思い出す。

座れば埋まるはずの空席が、座った途端に穴の輪郭を増す。

あの冷たさが、答えを先延ばしにする言い訳を許さない。


「……わかってた。

いつかは」


口にすると現実になる。

大人のふりではなく、大人として決断を下さなければならない。

その違いが、いちばん痛い。


扉が軽く叩かれた。

ティロが顔を出す。


「まだ起きてんの」

「起きてる」

「宿題か」

「宿題だよ」


ティロは遠慮なく入ってきて椅子を引き、蝋板を覗き込んだ。

覗き込む顔が、家の外の目と違う。

それだけで少し息が通る。


「民衆か元老院か。極端だよな」

「ローマが極端なんだ」

「お前が極端に悩んでんのも事実」

「うるさい」


言い返しても声は強くならない。

ティロは一度だけ肩をすくめ、真面目な声に切り替えた。


「でもさ。どっちにつくかっていうより、どっちに“見られるか”のほうが先に決まること、あるだろ」


名簿。

噂。

玄関に来る探り。

何も決めていないのに、周りが先に輪郭を作り始める。


カエサルは蝋板の縁を指で押した。


「決めないってのは、決めたのと同じってことか」

「違う。決めないままでも生きていけるやつはいる。でも、お前はもう家長だろ」


家長。

それは椅子の話じゃない。

外から貼られる札の話だ。


カエサルは息を吐く。


「……わかってる」

「なら今夜は寝ろ。悩んでる顔、明日に持ち越すともっと怖い」

「怖い?」

「怖い。お前の悩んでる顔って、刺さるんだよ。見たやつが勝手に意味作る」


カエサルは笑いかけて、笑えなかった。


「意味を作るのはローマの癖だな」

「悪癖」


ティロは立ち上がり、扉の前で振り返る。


「明日もある。

生きてる限り宿題は残る」

「教師みたいなこと言うな」

「教師じゃなくて友達な」


そう言って出ていった。

部屋に残ったのは蝋板の光と、決めきれない沈黙だけだった。



同じ夜。

キンナの屋敷は夜でも整っていた。

灯りは必要な場所にだけあり、影は余計なものを隠すために置かれている。

キンナは執務の蝋板を閉じ、廊下を歩きながら足を止めた。

広間の隅で、コルネリアが侍女と片付けをしている。


「コルネリア」


呼ばれると、彼女はすぐ姿勢を正した。


「はい、父上」


キンナは笑いも責めも混ぜずに言う。


「今日のユリウス家の子。どう思った」


コルネリアは少しだけ間を置いた。


「……立派でした」


「立派、ね」

「歳はお前とそう変わらないのに家長として座っている。確かに立派だ」


そこで、声がわずかに軽くなる。


「で、異性としてはどうだ」


コルネリアの頬が、みるみる赤くなる。


「っ……父上、そういうのは……」

「そういうの、とは」

「そんなこと、考えたことありません」


そっぽを向いて言い切った。

言い切ったのに、否定の角が立たない。

キンナはそれを見逃さない。


「考えたことがないのに顔が赤いのはおかしいな」

「父上が変なことを言うからです」


コルネリアは早口になる。


「それに、あの方は……まだ……」

「まだ?」

「まだ、子どもです」


自分も同じくらいの歳だという事実にぶつかったみたいに、さらに赤くなる。

キンナは小さく息を吐いた。

満足したようにも、残念そうにも見えた。


「そうだな。子どもだ」

「だが子どもは、形を与えられると早い」


頭を撫でるでもなく、声だけを置く。


「お前は形の意味を知っている。だから顔が赤い」


コルネリアは返事をしなかった。

返事をしないまま、片付けの手だけ動かし続けた。

その指先だけが、少し落ち着かなかった。



翌日。

ユリウス家の玄関に、キンナ家の使者が来た。

弔問の列とは違う礼儀の形をした速さで、要件だけを置いていく。

アウレリアが受け取り、封蝋を確かめ、カエサルに渡した。


紙は薄いのに指先が重い。

内容は簡潔だった。

難しい話は抜きにして、食事に来ないか。

若い家長の負担を、少しだけ軽くしたい。


カエサルは読み終えても、すぐ畳まなかった。

「難しい話は抜きにして」という言葉が、いちばん難しい。


アウレリアが静かに言う。


「難しい話は、食卓のほうが入りやすい時もある」


カエサルは低く返す。


「……罠に見える?」


「罠というより、目的のある親切ね」

「ローマの親切はだいたいそう」

「でも、行かないことで作られる意味もある」


行かないことで作られる意味。

沈黙で決まる立ち位置。

カエサルは紙を折り、膝の上に置いた。


「行く」


「ティロを連れていきなさい」

「もちろん」


返した声が、自分でも少し落ち着いて聞こえた。

決断は正しさじゃない。

先に立つことだ。

立てば、見えるものが増える。


廊下で待っていたティロが、顔を見ただけで察した。


「来た?」

「来た。食事会だってさ」

「難しい話抜きで?」

「そう書いてある」


ティロは鼻で笑う。


「書いてあるなら安心だな。ローマの紙は嘘つかないもんな」

「嘘つくに決まってるだろ」

「だよな」


笑いは短くて、すぐ消えた。

それでも短い笑いがあるだけで、息が少し通る。


夕方。

二人は灯りのある通りを選び、キンナの屋敷へ向かった。

街は落ち着いているようで、落ち着いていない。

人々は静かな声で噂を運び、静かな足で不安を運ぶ。


カエサルは歩きながら、胸の中で宿題を撫でた。

民衆か。

元老院か。

選ぶのは自分だ。

だが選んだ瞬間から、ローマが自分を選び返してくる。


ティロが横で言う。


「肩、固い」

「固くなる」

「食事会なんだろ。もうちょい力抜け」

「抜けたら、俺のほうが食われる」

「それはある」


ティロはあっさり認めてから、少し声を落とす。


「でも食われそうになったら引っ張ってやる。友達だし」


カエサルは小さく頷いた。


「頼む」


門が見えた。

整った灯りが、迎えるように並んでいる。

その整いが逆に怖い。

カエサルは足を止めなかった。

父の椅子の冷たさを背中に思い出しながら、扉の内側へ入っていった。

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