椅子の熱、仮面の笑み
玄関の外が少し騒がしくなった。
弔問の列に紛れ、別の筋の者が混じった気配がする。
声が違う。
靴音が違う。
慣れた者の歩き方だった。
ティロが顔を上げ、すぐに目で合図をした。
「使者です。キンナ家の」
家の中の空気が、ほんの一段固くなる。
名を出すだけで、部屋の温度が変わる。
ローマは“名前で殺す”。
ストラボ叔父の冗談が、笑えないまま戻ってきた。
その頃、キンナの屋敷では、蝋板の上を指が滑っていた。
指が滑るたびに、街の人間が動く。
名が並び、線が引かれ、余白が埋まる。
戦いは槍で始まる前に、紙で始まる。
「……マリウスの“名”だけが、まだここに残っている」
キンナは独り言のように言った。
声は低いが、耳に残る響きがあった。
若さと疲労が同居した声だ。
側近が身を屈める。
「新しい市民たちはあなたを見ています」
「古い貴族はあなたを疑っています」
「どちらも“寄る”対象を欲しています」
「だから、寄る場所を作る」
キンナは淡々と続けた。
「ユリウス家は、“古さ”の名札を持ちながら、マリウスの縁もある」
「いまローマに必要なのは、橋だ」
「橋は単体では意味がない。両岸がいる」
「……少年、ですか」
「少年だ。だが父が死に、椅子に座った少年は、すでに“家”だ」
キンナは蝋板を閉じる。
その仕草が、決断の合図のように見えた。
「呼べ。弔意として入れ。言葉は柔らかく。だが目的は隠すな。――私は曖昧さを嫌う」
側近が頷き、去っていく。
キンナは短く笑った。
「スッラが戻るまでに、ローマは“形”を決める。形が決まれば、剣は入りやすい。決まらなければ、剣はもっと入りやすい」
笑えるはずのない理屈を、彼は笑みで包んだ。
ユリウス家の玄関先。
使者は過度に慇懃ではなかった。
慇懃すぎるのは、怖がっている証拠だ。
怖がらないのは、侮っている証拠だ。
ちょうどその中間に、キンナの計算が見えた。
「キンナ様より、弔意を。……そして、若き家長殿に面会の願いがございます」
カエサルは奥から出てこなかった。
椅子から立ち上がる音を、まだ外に聞かせたくなかった。
ティロが代わりに受ける。
「日時と要件を書面で」
使者が一瞬だけ眉を動かした。
少年の家に、“少年の味方”がいる。
そう見えたのだろう。
「要件は――ユリウス家と、マリウスの縁。今後のローマのための“相談”です」
ティロは言葉を繰り返した。
「相談。……承りました。家長に伝えます」
使者が去り際に、もう一つ置いていった。
「キンナ様は、“答えを急がせる”つもりはない、と」
それが一番の圧だった。
急がせない、という言葉で、逃げ道を塞ぐ。
逃げるほど卑怯に見える状況を作る。
ティロが奥へ戻ると、カエサルは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
「行くべきだと思う?」
ティロは即答しなかった。
主人の気分に合わせるためではない。
即答できないほど、危ない誘いだった。
「行けば、見えます。行かなければ、見えないままです。……ただし、見えたものは“見た責任”になります」
アウレリアが口を挟む。
「責任を背負うのは、あなた。けれど背負い方は教えられる。――行くなら、ひとりでは行かないこと」
カエサルは頷いた。
「ティロ。お前も来い」
ティロは少しだけ目を伏せ、それからはっきり頷いた。
「はい。あなたが“家”なら、私は“家の手”です」
キンナの屋敷は、華やかさより“整い”が先に目に入った。
床の石は磨かれ、柱は誇示せず、香は強すぎない。
余計なものがないのに、余計なことが起きそうな家だった。
廊下の向こうから足音が来た。
軽いのに乱れない。
フォルム慣れした足音。
やがてキンナが現れる。
「待たせたな」
「来てくれて感謝する。父上のことは……惜しい。ローマにとって、ではなく、君にとって」
弔意の言葉は丁寧だった。
しかし“君にとって”と言うことで、相手を個人として抱え込み、次の言葉の通り道を作る。
カエサルは礼をした。
「弔意、受け取った。……ありがとう」
キンナは椅子を勧め、自らも座る。
座り方が上手い。
座るだけで、場の中心になる。
「ユリウス家は今、静かにしていると聞く。賢い。賢い家ほど、風の向きを先に読む」
「風は変わる」
カエサルは思わず言った。
父ガイウスが机で言っていた、東の戦より怖い“内側の戦”が、頭をよぎった。
キンナは頷く。
「変わる。だから“支柱”が要る。君の家は支柱になれる。――いや、君が支柱になれる」
ティロが息を詰めるのが分かった。
褒め言葉の形をした任命。
逃げれば臆病、受ければ拘束。
キンナは続ける。
「単刀直入に聞こう。君は、どちらに立つ? 民衆の側か。元老院の側か」
広間の空気が薄くなる。
試されているのは答えだけではない。
答え方だ。
カエサルはすぐに言葉を選べなかった。
父の椅子に座る練習はできても、ローマの椅子に座る練習は誰もさせてくれない。
「……今は答えられない」
キンナが眉を動かす。
怒りではない。
計算の更新だ。
カエサルは言い足した。
短くしてはいけない。
短い返事は、刃になる。
「材料が足りない。俺はまだ――父の死の形を覚えたばかりだ。名簿と挨拶と探りが、毎日来る。その中で、“どちらか”と決めるには、知るべきことが多い。考える時間が欲しい」
キンナは口元だけで笑った。
「正直だな。正直は美徳だが、時に武器にもなる」
「武器?」
「“決めていない”と言うことは、両方にとって可能性だ。可能性は、取り合いになる」
カエサルは視線を上げた。
「なら、俺は取り合われるのか」
キンナは言い切った。
「そうだ。君の家も、君も」
ティロが静かに言う。
「家長殿は考えます。ですが、考えるための安全が必要です。今日のこの会談が、圧にならないことを願います」
キンナはティロを見て、面白そうに目を細めた。
「君はよく喋る。……ユリウス家の幅だな。分かった。答えは急がせない。だが、君が材料を集める間に、風はさらに変わる。それだけは覚えておけ」
カエサルは立ち上がり、礼をした。
「考える。……逃げない」
その言葉に、キンナの笑みが一瞬だけ深くなった。
「逃げない、か。いい言い方だ。英雄は逃げないと信じられている。――だから英雄は死ぬ」
その“だから”が、カエサルの胸に残った。
帰り際。
門へ向かう廊下で、カエサルはふと背中に視線を感じた。
振り返ると、少し離れた場所にコルネリアがいた。
見送っているのではない。
ただ、見ている。
未来の形を、目で測っている。
カエサルが何か言いかけた瞬間、言葉が喉で止まった。
少女に言うべき言葉と、政治に言うべき言葉が、同じ器に入ってしまうのが怖かった。
ティロが小声で促す。
「帰ろう。今は、家の椅子が君を待っている」
門を出たところで、キンナが最後にぽつりと漏らした言葉が、背後から追ってきた。
「……あの少年、目が落ち着かない。父を失った目だ。だが、別の何かもある」
コルネリアは答えなかった。
ただ一度、目を伏せ、また上げた。
その動きだけが、肯定のようにも見えた。
ローマの空は、晴れていた。
晴れた空ほど、嵐の前触れを隠す。
カエサルは歩きながら、自分の中の熱が“剣の熱”ではなく、“椅子の熱”へ変わっていくのを感じていた。




