家長の席
父がいなくなった家には、音が残っていた。
留め具を整える音。
靴を脱ぐ音。
椅子を引く音。
その音だけが、主の形を作っていた。
食卓の端に、父の椅子がある。
椅子は片づけられていない。
誰も触れない。
触れないことで、空席が空席のまま残る。
空席は、家の中心に穴を開ける。
穴は見えないのに、全員の足取りを変える。
朝。
カエサルは形式のために、その席へ座った。
まだ服が馴染まない。
外套の肩が落ち着かず、帯が少し硬い。
椅子の高さが、体に合っていないように感じる。
座っているだけなのに、背中が痛い。
ミノルが顔をしかめて言った。
「兄さん、似合ってない」
言い方は軽い。
軽い言い方で、泣きたいのを隠している。
ミノルの目が赤いのを、カエサルは見ないふりをした。
カエサルが言い返す。
「うるさい」
「似合うようになるまで座るだけだ」
ミノルが鼻で笑う。
「座るだけで父さんになれるなら、みんな座るよ」
マイオルがミノルの肩に手を置いた。
置き方が優しいのに、止める手だった。
「ミノル」
マイオルが言う
「いきなり父のようにはなれない」
「だからまずは」
「格好だけでもそれっぽくしなさい」
「見た目は嘘じゃないわ」
「見た目は、家の約束よ」
カエサルは黙って外套の留め具を直した。
留め具の位置が揃うと、少しだけ呼吸が整う。
父がいつもやっていたのは、こういう小さな整え方だったのだと気づく。
ティロが背後に立っていた。
前に出ない。
前に出ないのに、いつでも支えられる距離にいる。
ティロのこういう立ち方は、家の“柱の補強”みたいだ。
「今朝は来客が三組です」
ティロが低い声で言う
「弔問の名目が二つ」
「もう一つは、用件が曖昧です」
「たぶん探りです」
カエサルは椅子の肘掛けに指を置いた。
置いただけで、指先が震える。
震えは出さない。
出したら札になる。
父の死を“機会”と見る人間は、震えを嗅ぎつける。
アウレリアが、帳簿と蝋板を卓へ置いた。
置く音が静かで、静かだから重い。
母は泣かない。
泣かないのは強いからではない。
家を動かすために泣けないのだ。
「これが家の金」
アウレリアが言う
「これが家人の名簿」
「これが今月の支払い」
「今まで父が見ていたものを、あなたに渡す」
「私は後ろで支える」
「でも決裁はあなたがする」
カエサルは喉が乾いた。
剣を握る時より乾く。
剣は敵が見える。
帳簿は敵が見えない。
見えない敵の方が、怖い。
「分かった」
カエサルが言う
「……でも」
「俺は、全部は」
アウレリアがすぐに言った。
「全部分からなくていい」
「分からないなら保留にしなさい」
「決められないことを、勢いで決めない」
「勢いで決めたことは、あとで必ず血がつく」
その言葉が、家の空気を少しだけ締めた。
母の厳しさは、ここで刃になる。
刃になる厳しさが、優しさにもなる。
カエサルはそれを感じて、目を伏せずに頷いた。
玄関が鳴った。
控えめな叩き方。
控えめなほど、狙いがある。
一組目。
弔問の言葉は整っていた。
整っている言葉ほど、次の一言が本題だ。
「ご尊父のご逝去、まことに痛ましく」
男が言う
「さて、以前の件ですが」
「この機会に、手続きを」
カエサルは息を吸って、吐いた。
父の椅子の穴を、背中で感じる。
穴のままでは座れない。
座るには、言葉を出すしかない。
「断る」
カエサルが言う
「今は喪中だ」
「手続きは落ち着いてからだ」
「必要なら書面で出せ」
「口で決めない」
男の目が一瞬だけ細くなった。
若い家長を試す目だ。
だがカエサルは視線を逸らさない。
逸らさないだけで、相手の歩幅が少し乱れる。
「……承りました」
男が言う
「では、後日」
二組目。
挨拶の形で来たが、話の途中でこちらの懐を探ってくる。
家の金。
家人。
今後の後見。
結婚の縁。
どれも“善意”の顔をしている。
善意の顔をした取引だ。
カエサルは途中で言った。
「保留する」
「父の代わりに即答はしない」
「母と相談してから返す」
「返答は、こちらから出す」
三組目。
用件が曖昧な客。
曖昧な客は危ない。
曖昧は、何にでも化ける。
ティロが小声で告げる。
「名は立派ですが」
「同席者が多いです」
「門の外にも人がいます」
カエサルは一瞬、胸が冷えた。
これは挨拶ではない。
圧だ。
圧は人数で来る。
人数が来ると、家が揺れる。
アウレリアが目で言った。
決裁はあなた。
カエサルは椅子に背を預けず、前に乗った。
前に乗ると声が出る。
「会わない」
カエサルが言う
「用件を書面で出せ」
「今は家の中に入れる理由がない」
「門で帰せ」
ティロがすぐに動いた。
動きが速い。
速いが乱れない。
カエサルは、その背中に救われる。
救われながら、自分が決めたことの重さを感じる。
会わない。
それは剣を抜かずに勝負する言葉だ。
そしてその言葉は、敵も作る。
客が引いたあと、家の中に薄い静けさが戻った。
薄い静けさは、次の音で簡単に破れる。
それでも、今は薄い静けさで十分だった。
昼過ぎ。
ルフスが顔を出した。
いつものふざけた勢いが少ない。
少ないが、目は生きている。
「おい」
ルフスが言う
「なんか大人になったな」
「椅子に座ってるだけで、顔が違う」
カエサルが鼻で笑う。
「座ってるだけで大人なら楽だ」
「座ってるだけで腹が痛い」
ルフスは肩を揺らして、真面目な声を混ぜた。
「俺も負けてられない」
「家があるやつは、守るものが増える」
「守るものが増えると、強くなるか折れるかだ」
「お前はどっちだ」
カエサルは答えを短くしなかった。
短くすると、逃げになる気がした。
「折れない」
「折れたら」
「父が残した席が、ただの穴になる」
「穴にしたくない」
ルフスが頷いた。
それ以上は言わない。
言うと、互いに泣きそうになるのが分かっている。
夕方。
アウレリアがもう一度、卓に紙を置いた。
今日の来客の記録。
明日の予定。
支払いの順序。
家人の配置。
「今日はよくやりました」
アウレリアが言う
「でも、明日も来る」
「父の死を機会と見る者は」
「しばらく減らない」
カエサルは父の椅子を見た。
空席はまだ空席だ。
だが空席の横に、自分の席ができ始めている。
まだ馴染まない。
馴染まないが、座れる。
「母上」
カエサルが言う
「俺は」
「家長の席に座る」
「逃げない」
アウレリアは微笑まなかった。
微笑むと、息子が甘えるからだ。
代わりに、静かに頷いた。
その夜。
外の風が変わった。
港の方角から来る噂が、また別の匂いを帯びている。
遠征の終わり。
軍の帰路。
勝者の足音。
誰も名前を口にしない。
だが家の中で、全員が同じ名前を思っていた。
スッラ。
戻ってくる者。
父の椅子は空いたまま。
だが空席のままでは、家は守れない。
だからカエサルは、明日もそこに座る。
まだ馴染まない服のまま。
家長の席の重さを、背中で受け止めながら。




