十五の家長
そんなある時。
父ガイウスが、意識をしっかり取り戻した。
その日は顔色が少し良く、目がはっきりしていた。
起き上がることもできた。
声も出る。
それだけで、家の空気が変わる。
変わるのは希望ではない。
呼吸の深さだ。
父が言った。
「外に出たい」
「少しでいい」
「丘の上まで歩きたい」
母が止めようとした。
止めるべきだと分かっているからだ。
だが父の目が、珍しく頑固だった。
頑固な目は、最後のわがままの目だ。
母はその頑固を見て、頷いた。
頷きの中に、許しと覚悟が混じっていた。
家族みんなで散歩に出た。
父を支える。
マイオルが片側。
カエサルが反対側。
ミノルが少し後ろで、怖いのに目を離さない。
母が後ろから全体を見ている。
戦列みたいな並びだった。
家族が一つの陣形になる。
丘の上に登ると、ローマの屋根が見えた。
煙が立つ。
寺院の柱が遠くに白い。
人の声はここまで届かない。
届かないのに、街の気配だけは見える。
あの街で、父はずっと戦ってきた。
剣ではなく紙で。
名ではなく角度で。
しばらく話していると、父がせき込んだ。
咳は小さいのに、胸を裂くように見える。
母がすぐに背をさすり、父は手を振って笑おうとした。
笑いが薄い。
そして父が、ぽつりと言った。
空を見ながら言う。
空に言う言葉は、家族に言う言葉より本音に近い。
「ミノルやマイオルは」
父が言う
「きっときれいなお嫁さんになったんだろうな」
その瞬間、ミノルが泣き出した。
堪えていたものが一気に溢れる。
マイオルも唇を噛んで、結局涙が落ちた。
姉は泣かない役目をしていた。
その役目が外れたのが、何より辛い。
父は小さく息を吸って、カエサルを見た。
目が優しい。
優しい目ほど、痛い。
「カエサル」
父が言う
「お前は、みんなを頼んだよ」
「母上を」
「姉妹を」
「家を」
カエサルは必死に涙をこらえた。
こらえるほど喉が震える。
震えを誤魔化すために、声を強くした。
「男と男の約束だ」
カエサルが言う
「だから」
「指を切る」
カエサルは指を差し出した。
父も指を出す。
指と指が絡み、切る真似をする。
血は出ない。
だが誓いは出る。
誓いが胸に刺さる。
その日が、神がくれた最後の一日だったのかもしれない。
翌日以降、父の容態は悪化した。
息が浅くなり、目が遠くなり、声が途切れる。
家の中の灯りが、また低くなる。
そして、ついに父は亡くなった。
死は静かだった。
静かだから、受け入れるのが難しい。
受け入れられないまま、家は動く。
動かないと潰れるからだ。
葬儀は流れるように執り行われた。
基本は母がメインで担当した。
礼の角度。
来客の順番。
供物。
祈り。
言葉の選び方。
全部を、母は乱さず進めた。
乱さないことが父への弔いだと知っている。
カエサルも前に立って挨拶をした。
声は震えた。
だが震えたまま言った。
震えを隠すより、誠実を見せるべきだと、今は分かる。
キンナも来た。
コルネリアも来た。
喪の場の黒い布の中で、コルネリアの目が濡れて見えた。
彼女はすごく悲しそうな顔をしていた。
檻の住人の顔ではなく、ただの同年代の顔だった。
コルネリアが近づき、カエサルの頬にそっと手をやった。
指が温かい。
その温かさが、今のカエサルには耐えがたい。
優しさは痛い。
痛いから、顔が熱くなる。
熱くなるのが恥ずかしくて、カエサルは顔をそむけた。
コルネリアは何も言わなかった。
言わないことが、いちばん優しい時がある。
彼女は手を引いて、ただ少しだけ頷いた。
その日、カエサルは一家の主になった。
齢十五歳。
剣の握りは強くなった。
言葉も少しずつ覚えた。
だが家長という重さは、剣とも紙とも違う。
家長は、家族の息を預かる重さだ。
カエサルは夜、父と切った指の感触を思い出した。
血は出なかった。
だがあの誓いは、今も胸の中で赤く咲いていた。
葬儀が終わった夜。
家は静かだった。
静けさは弔いの静けさで、同時に、次の一手を探す静けさでもあった。
灯りは低い。
低い灯りの下で、母アウレリアは帳簿を閉じ、封蝋の欠片を指で寄せた。
寄せる指先が乱れていないのが、逆に怖かった。
外で戸を叩く音がした。
強い叩き方ではない。
急ぎの叩き方だ。
急ぎなのに、声を上げない叩き方。
今のローマの叩き方だった。
使用人が受け取り、短い蝋板を運んできた。
薄い板なのに、部屋の空気が重くなる。
重くなる前に、アウレリアはそれを受け取った。
受け取る動きが速い。
速い動きは、覚悟の動きだ。
カエサルは母の横顔を見た。
母の目が板の文字を追う。
追い終わった瞬間、まぶたが一度だけ閉じる。
閉じたのは涙のためではない。
計算のためだ。
カエサルが声を絞った。
「母上」
「何が来た」
アウレリアは答えを急がない。
急がないまま、カエサルの顔を見た。
家長の目で。
もう子どもに返す目ではない。
「噂よ」
アウレリアが言う
「でも」
「噂で終わらない匂いのする噂」
板を卓に置き、指で軽く押さえた。
押さえる指が、風で飛ぶのを止める指みたいだった。
「海の向こうで勝っていると」
アウレリアが言う
「帰り支度を始めたと」
「港の名が出ている」
「兵の名も出ている」
カエサルの喉が乾いた。
海。
港。
兵。
その並びは、決まって一つの名に繋がる。
「……スッラ」
カエサルが言う
アウレリアは頷いた。
頷きは小さい。
小さいのに、家の柱が軋むほど重い。
「戻ってきそうだわ」
アウレリアが言う
「戻ってきたら」
「ローマはまた、“終わったふり”をする暇がなくなる」
外で風が鳴った。
風の音に混じって、遠くで角笛のような音がした気がした。
気のせいかもしれない。
けれど今のローマでは、気のせいが先に現実になる。
カエサルは父と切った指の感触を思い出した。
血は出なかった。
だが誓いは出た。
誓いは、逃げ道を塞ぐ形で胸に残っている。
「家を守る」
カエサルが低く言う
「今度こそ」
アウレリアは何も言わず、ただ灯りを少し落とした。
灯りを落とすのは、闇に負けるためではない。
闇の中で目を慣らすためだ。
次の夜に備えるためだ。




