無力
父が病に伏せてしばらくは、穏やかな時が流れていた。
穏やかというのは、嵐が止んだという意味ではない。
嵐の中で、家の中だけが灯りを消さずにいるという意味だ。
外のローマは相変わらず札と名簿と噂でざらついている。
それでも家の中は、母アウレリアの手で形が保たれていた。
母はより一層忙しそうだった。
水の量。
薬草の量。
医者の出入り。
使用人の配置。
来客の断り方。
父の寝所の温度。
全部を同時に見て、同時に決める。
決める時、母の声は低い。
低い声が家の柱になる。
ある夜。
カエサルは母に呼ばれた。
呼ばれ方が、いつもより静かだった。
静かな呼び方は、逃げ道を消す呼び方だ。
灯りの少ない部屋で、母はカエサルを向かいに座らせた。
布の擦れる音が、やけに大きい。
母の目は優しい。
だが優しさだけではない。
そこに厳しさが混じっている。
厳しさが混じるほど、逆に優しさが本物に見える。
「聞きなさい」
アウレリアが言う
「最悪に備えて」
「あなたが一家の主になることも想定しなさい」
カエサルの喉が鳴った。
言葉を飲み込む音だ。
想定する。
それは、父のいない家を頭の中で作ることだ。
作りたくない。
作りたくないのに作らねばならない。
「母上」
カエサルが言う
「父は」
「まだ」
「分かっている」
アウレリアが静かに遮る
「だからこそ、今なの」
「慌てて作る家は崩れる」
「準備して作る家は、揺れても倒れない」
母は続けた。
「私が支える」
アウレリアが言う
「手続きも」
「人の扱いも」
「この家の癖も」
「全部、あなたに渡す」
「でも主になるのはあなたよ」
「怖がるなとは言わない」
「怖がりながら、決めなさい」
カエサルは頷いた。
頷きながら胸が痛い。
痛いのに、母の言葉は温かい。
温かいから、余計に泣きそうになる。
寝所の方では、妹ミノルが泣き出しそうになっていた。
父の顔色が少し変わるたびに、目が泳ぐ。
声を出して泣かないのは、父が苦しむのを見たくないからだ。
姉マイオルがそばにいて、ミノルの肩を抱く。
抱き方が丁寧で、丁寧だから強い。
「大丈夫」
マイオルが言う
「今は、できることをするだけ」
「泣くのはあとでいい」
ミノルは唇を噛み、頷いて、また泣きそうになる。
子どもは泣く。
泣くことが間違いではない。
泣けない方が壊れる。
カエサルはそれを知っているのに、泣けなかった。
泣くと家の柱が揺れる気がして、泣けない。
カエサルは町を駆け巡った。
父の体に効きそうなものを探した。
薬草屋。
香辛料屋。
異国の粉を売る商人。
医者の弟子。
祈祷師。
どれも同じ顔をする。
同情の顔。
商売の顔。
そして最後に「分からない」の顔。
家庭教師グニポにも必死に訊ねた。
言葉の人に、命の答えを求める。
求めるのは間違いだと分かっているのに、手が届く相手がそこしかいない。
「先生」
カエサルが言う
「本にあるだろ」
「薬草でも、手当てでも」
「何か」
グニポは首を振った。
振り方がゆっくりで、ゆっくりだから痛い。
「知識は道具だ」
グニポが言う
「だが道具には届かないものがある」
「病はその一つだ」
「私は嘘を言わない」
カエサルは本を読み漁った。
文字を追う。
文字の中に父を探す。
探しても見つからない。
見つからないほど、文字が冷たくなる。
書や知識は病の前では無力だ。
カエサルはそう思った。
思ってしまった瞬間、胸が空っぽになった。
空っぽになるのが怖くて、さらに本を開く。
開けば開くほど、無力が増える。
そんな暗闇の日々が続いていた。




