最後に守るもの
マリウスの葬式が終わってから、街も家も少しずつ落ち着き始めていた。
黒い布は減り、祈りの声は小さくなり、屋台の呼び声がまた通りを満たす。
落ち着きが戻ったように見える。
見えるだけで、土の下の根はまだ燃えている。
それでも人は“落ち着いた”と言ってしまう。
そう言わないと、明日のパンが喉を通らないからだ。
ユリウス家も同じだった。
扉を叩く音は減った。
封蝋のついた紙も減った。
母アウレリアの声も、ほんの少しだけ高さを取り戻す。
だが父ガイウスだけは、疲れの殻から抜け出せずにいた。
顔色が戻らない。
歩幅が戻らない。
息の入り方が浅い。
浅い息は、胸の中で何かを押さえ続けている息だ。
カエサルは心配をし始めていた。
心配を言葉にすると父が笑って誤魔化すのを知っている。
だから心配は、視線の形で出る。
父の背中を見る時間が増える。
父が咳をするたびに、耳が立つ。
ある夕方。
父は窓際に座っていた。
外の光が傾き、机の上の蝋板に長い影を作る。
影は伸びて、紙の端を舐める。
その影の中で、父が笑った。
笑いは軽くない。
軽くない笑いは、言葉を探している笑いだ。
「なあ」
ガイウスが言う
「お前はローマの行く末を、どう思う」
唐突だった。
だが唐突ではない。
父はずっとそれを胸の中で回していたのだ。
回し続けて、ついに息子に渡した。
カエサルは一拍置いた。
答えは胸の奥にある。
だが言葉にすると、形ができる。
形ができると、怖さが現実になる。
「不安だ」
カエサルが言う
「でも、止まれない」
「止まったら、名簿に負ける気がする」
「槍にも、札にも」
「だから」
「突き進むしかないと思う」
「強くなるしかない」
「知るしかない」
父は頷いた。
頷き方が、褒める頷きではない。
受け取る頷きだ。
息子の不安を、否定せずに受け取る頷き。
「そうだな」
父が言う
「突き進むしかない日がある」
「だが」
父は少し目を伏せた。
伏せた目の先に、家の床がある。
家の床は、どんな噂より確かだ。
確かだから、今は怖い。
「決して忘れてはいけないのは」
ガイウスが言う
「いざとなったとき、最後に頼れるのは剣でも紙でも名簿でもない」
「それは家だ」
「最後に守るのは家だ」
「最後に戦えると思えるのは、家族だ」
“家族”という言葉が出た瞬間、カエサルの喉が少し詰まった。
英雄の話より、剣の話より、重い。
重いからこそ、逃げたくなる。
逃げたくなるからこそ、守りたくなる。
父は笑ってごまかさなかった。
ごまかさないまま言った。
それが父の本音だった。
その後、カエサルは外へ出た。
息が詰まったままだと、歩きたくなる。
歩けば少しだけ散る。
散った隙間に、また息が入る。
ルフスとティロと合流した。
石を投げて遊ぶ。
棒を振って遊ぶ。
子どもの遊びだ。
だが遊びの形を借りて、三人は剣の距離を測っている。
誰が速いか。
誰が止まれるか。
誰が周りを見ているか。
遊びの中で、未来の癖が出る。
その時だった。
家の使いが走ってきた。
走り方が、良い知らせの走り方ではない。
足だけで分かる。
悪い知らせは、足から先に来る。
「カエサル様」
使いが言う
「ご主人様が倒れました」
「今、家で」
世界の音が一瞬、遠のいた。
ルフスが何か言った気がする。
ティロが息を呑んだ音がした。
だがカエサルの耳は、言葉を受け取れなかった。
受け取れたのは一つだけ。
父が倒れた。
カエサルとティロは二人で走った。
走るなと教えられていたのに、走った。
転ぶとか、目立つとか、もうどうでもいい。
家が遠い。
遠いのに、足が地面を掴まない。
焦りは足を軽くするのではなく、空回りさせる。
玄関をくぐると、家の空気が変わっていた。
静かだ。
静かすぎる。
使用人の動きが早いのに、声がない。
声がないのは、命がそこにあるからだ。
寝所の奥で、父が横たわっていた。
顔色が白い。
唇が乾いている。
目は半分閉じている。
閉じているのに、眠っているようには見えない。
意識が薄い。
薄い意識が、どこか遠くを彷徨っている。
カエサルは足が止まった。
止まるしかなかった。
動けば、何かが壊れる気がした。
壊れるのは父ではなく、自分の中の何かだ。
ティロがカエサルの袖を掴んだ。
掴み方が強い。
強い掴み方は、支えの掴み方だ。
今は支えないと倒れる。
倒れるのは誰か。
分からないから、二人とも立つ。
母アウレリアが医者と話していた。
母は泣いていなかった。
声は低い。
低いまま、乱れていない。
乱れていないことが、今は恐ろしいほど強い。
母は家の柱だ。
柱が泣けば、天井が落ちる。
だから泣かない。
医者が何か言う。
脈。
熱。
休養。
そして、無理。
“無理”という単語が、布のように部屋の空気を重くする。
アウレリアは頷いた。
頷いて、必要な指示だけを出す。
「水を」
アウレリアが言う
「布を温めて」
「灯りを落として」
「出入りは最小に」
家は母の声で動く。
動くから、崩れない。
父はもうろうとした意識の中をさまよっていた。
ときどき口が動く。
言葉にならない言葉が漏れる。
名前の切れ端。
地名の切れ端。
誰かの呼び方の切れ端。
仕事の切れ端だ。
父は倒れても、まだ外の世界を押さえようとしている。
その姿が痛い。
カエサルは父の言葉を思い出した。
最後に守るのは家だ。
家族だ。
その“最後”が、今なのかもしれない。
そう思った瞬間、胸が冷えた。
冷えたのに、目は逸らせなかった。
逸らしたら、父の背中を見失う。
父の背中を見失えば、自分が何を守るのか分からなくなる。
カエサルは小さく息を吸った。
息を吸って、吐いた。
泣きたくなる。
だが泣くと母の柱が揺れる気がして、泣けない。
泣けないまま、拳だけが固く握られた。
ローマの混沌は外にある。
だが今、カエサルにとっての戦場はこの寝所だった。
剣も紙も名簿も役に立たない場所で、ただ家族だけが残っている場所だった。




