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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第18章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅱ~

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仮面が落ちる音

その日は、いつもの様子で街が流れていた。

屋台は声を張り、石畳は足音を受け、パンの匂いは人の腹を動かす。

昨日と同じ匂いがするだけで、人は「今日も大丈夫だ」と思い込める。

ローマはそうやって自分を保つ。


ユリウス家も同様だった。

母アウレリアは帳簿と使用人の動きを同時に見ていた。

父ガイウスは外套の留め具を確かめ、短い言葉で出入りを指示していた。

カエサルは朝の稽古のことを考え、ティロは巻物の端を整えていた。

平穏は、形だけならいつでも作れる。


その平穏に、急報が刺さった。

刺さり方が短い。

短い知らせほど、人の中で長く残る。


「マリウスが亡くなられた」


言葉が部屋に落ちた瞬間、空気が止まった。

止まったのは驚きだけではない。

次に何が起きるかを、全員が同時に計算し始めたからだ。

英雄が死ぬ。

英雄が死ぬということは、英雄の影が別の名に移るということだ。


アウレリアの指が一度止まり、すぐ動いた。

止まったのは感情のためではない。

判断のためだ。

判断が終われば、手は止まらない。


父ガイウスが短く息を吐いた。

短い息は、現実の息だ。


「……早すぎる」

父が言う

「街はまた揺れる」


使いが出入りし始める。

弔問の準備。

贈る言葉の選別。

誰と会うか。

誰と会わないか。

礼の角度をどうするか。

家が家であるための作法が、一斉に動き出す。


カエサルは目を見開いたまま、動けなかった。

信じられない。

信じられないというより、信じたくない。

あのマリウスが。

帰ってきたとき、門の前で黒い気配をまとっていた男が。

黒いのに底が見えなかった豪傑が。

そんなものが、あっけなく死ぬ。


ルキウス叔父とストラボ叔父が殺されたあの夜以来、カエサルはマリウスを単なる英雄として見られなくなっていた。

英雄という言葉の上に、血の匂いが乗ってしまった。

その血の匂いの中心にいた男が、病のように、時間のように、死ぬ。

それがどうしても腑に落ちない。

腑に落ちないままでも、世界は進む。

進むから、余計に怖い。


キンナの側。


キンナの部屋は静かだった。

静かだが、祝宴の静けさではない。

次の一手を選ぶ静けさだった。

机の上に地図が広がり、蝋板が並び、使者が控えている。

キンナは悲しみの顔を作らない。

作らないことで、部下に余計な揺れを渡さない。


家来の一人が言う。


「民は動揺しています」

「英雄が死ねば、英雄の旗が必要になります」

「名簿を恐れる者は、さらに恐れます」


キンナはゆっくり頷いた。

頷きが、弔いではなく計算の頷きだ。


「マリウスの名は、まだ生きている」

キンナが言う

「だが本人はいない」

「名だけが残る時ほど、扱いが難しい」

「名を盾にする者もいれば、名を槍にする者もいる」


別の家来が、声を落として言った。


「スッラは、いつか戻ります」

「戻った時、我々が分裂していれば終わりです」


キンナは机の端を指で叩いた。

叩く音は小さいのに、全員の背筋が伸びる。


「だから次の仮面に移る」

キンナが言う

「悲しんでいる暇はない」

「今は、形を整える」

「兵」

「金」

「港」

「そして、正当の言葉」

「スッラに対抗する策を、今夜から積む」


家来が問う。


「民には、どう説明しますか」


キンナは答える。

答えが長くなる。

長い答えは、民の腹をなだめるための答えだ。


「マリウスは国に尽くした」

キンナが言う

「だから我々は国を守る」

「復讐ではなく秩序だと言う」

「だが秩序は、弱さではない」

「必要なら、硬い手も使う」

「ただし、硬い手を“正しい形”で見せる」


正しい形。

その言葉が部屋を硬くした。

正しい形の裏側に、何があるかを全員が知っているからだ。


マリウスの式典。

弔問。


ローマの通りは黒い布が増えた。

黒は喪の色で、同時に恐怖の色だ。

人々は集まる。

集まるのに、拍手はない。

祈りだけがある。

祈りは声にならず、口元で折り畳まれていく。


ユリウス家も参列した。

父ガイウスの礼は深すぎず浅すぎず、角度が正確だった。

アウレリアは目を伏せ、だが崩れない。

崩れないのが、母の強さだ。


カエサルは列の中で、胸の奥がざらつくのを感じていた。

弔いなのに、安らぎがない。

死者を送る場なのに、次の生者の戦いがすでに始まっている。

それがローマの弔いだ。


そこにキンナの一家もいた。

人の流れの中で、コルネリアが見えた。

あの髪。

あの目。

光のある場所で見た笑みを、カエサルは覚えている。

だが今のコルネリアは笑っていない。


変わらない様子に見えた。

けれど“変わらない”のは、揺れを表に出さないという意味だった。

檻にいる覚悟を決めた顔。

子どもなのに、すでに礼儀と沈黙で自分を縛っている顔。

それを見てカエサルは、胸の奥が少し痛んだ。

痛むのに目を逸らせない。


キンナが父ガイウスと母アウレリアの方へ来た。

言葉を交わす距離。

礼の角度。

声の高さ。

すべてが整っている。

整っているからこそ、互いに刃を隠せる。


「この度は」

キンナが言う

「ご足労をおかけしました」

「ローマは今、悼むと同時に立て直さねばなりません」


父ガイウスが答える。


「悼みは必要です」

父が言う

「だが悼みだけでは街は持たない」

「その点は同意します」


アウレリアも静かに言葉を添えた。


「家々が揺れています」

アウレリアが言う

「揺れを広げない配慮が、今は何より必要です」


キンナは頷き、視線をほんの少しだけ外した。

外した先に、カエサルがいた。

キンナの視線がカエサルに触れた瞬間、カエサルの背筋が勝手に伸びる。

スッラの視線とは違う。

だが“測られる”という点では同じだった。


「お子は」

キンナが言う

「最近、顔が変わったと聞きます」

「剣の話ではない」

「目の話です」


父ガイウスが一瞬だけ言葉に詰まった。

詰まった後で、慎重に答える。


「色々見ました」

父が言う

「見すぎたかもしれません」


キンナは小さく息を吐いた。

それは同情にも見えるし、計算にも見える。

どちらにも取れる息は危ない。


「ローマの子どもは」

キンナが言う

「早く大人になります」

「それが強さになることもある」

「だが傷になることもある」


アウレリアが、ほんの少しだけ表情を和らげた。

母親の顔が一瞬だけ出る。


「強さに変えさせます」

アウレリアが言う

「ただし、家が残る範囲で」


キンナは頷いた。

そしてもう一度だけカエサルに目をやった。

何かを思う目だった。

まだ言葉にならない何かを、心の中で組み立てている目。


カエサルはその視線を受けながら、胸の奥で思った。

英雄が死ぬ。

仮面が移る。

そして次の仮面は、今、自分を見ている。

それが怖い。

だが目を逸らしたくない。

逸らした瞬間に札が貼られる気がしたからだ。


弔いの列は続いた。

黒い布が揺れ、祈りが口元で折り畳まれ、誰も拍手しない。

赤が咲く季節は終わらない。

ただ、咲かせる手の顔が変わるだけだった。

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