誓いの砂、勝利の檻
アリーナの砂は、いつも通り乾いていた。
乾いた砂は軽い。
軽いのに、足跡は残る。
残る足跡が、今日の自分の証拠になる。
ローマでは証拠が必要だ。
証拠がないと、名簿に消される。
それを、カエサルはもう知ってしまった。
ルフスは木剣を肩に担いでいた。
以前なら笑っていたはずの顔が、今日は笑いきれない。
ティロも同じだった。
賢い目が、今は怖さを数えている。
怖さを数える目は、子どもを早く大人にする。
カエサルは二人の前に立った。
言葉を選ぶふりをして、選ばない。
選んでいる余裕はない。
胸の奥にある熱を、真っ直ぐ出す。
「俺は強くなる」
カエサルが言う
「必ずだ」
「剣だけじゃない」
「言葉も、紙も、札も」
「全部、負けない形を覚える」
「もう二度と」
「ああいう夜を、ただ見て終わらせない」
ルフスが唇を噛んだ。
噛みながら、笑おうとする。
笑いが薄い。
薄い笑いは、誓いの笑いだ。
「お前の誓い、いつも大げさだな」
ルフスが言う
「でも、嫌いじゃない」
「俺も強くなる」
「次に誰かが目の前で倒れても」
「俺は膝だけで終わらない」
「立つ」
「立てる足を作る」
ティロは目を伏せた。
伏せた目は弱さではない。
自分の中の怖さを数えている目だ。
数え終わった者だけが、言葉を出せる。
「僕は」
ティロが言う
「剣は、君たちほど強くなれないかもしれない」
「でも」
「僕は見る」
「聞く」
「覚える」
「間違いを、札にされないように」
「言葉の順番を覚える」
「君が火なら」
「僕は、火が燃える場所を選ぶ」
カエサルは頷いた。
頷きの中に、感謝が混じる。
感謝を言葉にすると崩れる気がして、頷きで済ませた。
「だから三人でやる」
カエサルが言う
「俺一人が強くなっても、守れる範囲は限界がある」
「母が言ってた」
「英雄にも限界がある」
「なら俺たちは」
「限界を広げるために、三人で強くなる」
ルフスが砂を蹴って笑った。
笑いが少しだけ本物に近づく。
「勝手に俺を仲間にするな」
ルフスが言う
「……いや」
「勝手にしていい」
「今さら一人で勝てると思ってない」
ティロが小さく頷いた。
その頷きが、三人の誓いの印になった。
月日は過ぎる。
季節が巡る。
砂の上の足跡は消える。
だが消えた足跡のぶんだけ、足は強くなる。
翌年。
ローマはまた“決まった”。
決まったのは、執政官。
マリウスとキンナ。
街の反応は両極端だった。
祝う者は酒を開けた。
パンを配り、肩を叩き合い、声を上げた。
「新しいローマだ」と叫ぶ者もいた。
叫ぶ声は明るい。
明るい声は、怖さをごまかす時に出る。
一方で怯える者は戸を閉めた。
窓を塞ぎ、灯りを落とし、子どもの口を手で覆った。
喜びの声が大きい日ほど、怯えも深い。
怯えは声を出さない。
出さないぶん、家の中で増える。
そして今やスッラは遠征に行ったきり戻っていない。
戻っていないことが、救いにも見えるし、呪いにも見える。
戻らないなら安心。
戻らないなら、どこかで負けているかもしれない。
負けているなら、戻れないだけかもしれない。
戻れない英雄は、別の英雄を燃やす。
燃えた英雄は、別の名簿を増やす。
元老院は息をひそめるしかなかった。
息をひそめる者は、決して消えていない。
ただ、今は声を出さないだけだ。
声を出さない沈黙は、いつか刃になる沈黙だ。
場面が変わる。
コルネリアの家。
キンナ邸。
屋敷は勝利の顔になっていた。
使用人の足取りが軽い。
灯りが増える。
食卓の皿が増える。
客が増える。
褒め言葉が増える。
増えるものが多いほど、家は明るく見える。
キンナが執政官になった。
それは家にとって大きな勝利だ。
勝利は家の空気を甘くする。
甘い空気は、人を油断させる。
だが油断は、貴族の家では許されない。
油断は隙になり、隙は札になる。
コルネリアは廊下の端で、その明るさを見ていた。
笑い声がする。
祝いの言葉がする。
布が擦れる音が華やぐ。
それなのに胸の奥が重い。
重い理由は分かっている。
檻に囚われている気分だった。
檻は鉄ではない。
礼儀と期待と縁と、家の名でできている。
檻は外からは見えにくい。
見えにくいから、余計に逃げられない。
誰かが言った。
「良かったね」
「勝ったね」
「これで安心だね」
安心。
その言葉が、コルネリアの胸を少しだけ刺した。
安心は、いつも短い。
短い安心の後に、長い恐怖が来るのを彼女は知っている。
子どもなのに知っているのが、貴族の娘の悲しさだった。
コルネリアは小さく息を吸って、吐いた。
吐く息の中に、諦めではない決意を混ぜる。
「これが役目だ」
コルネリアは心の中で言った。
貴族の役目。
家の役目。
笑う役目。
黙る役目。
そして、選ばれた縁を引き受ける役目。
明るい屋敷の中で、彼女は一人、檻の形を整えた。
整えることで壊れないようにする。
壊れないことが、今の強さだと納得する。
納得してしまう自分が、少しだけ怖かった。
ローマは祝っている。
ローマは怯えている。
どちらも同じ日に起きる。
その矛盾こそが、今のローマだった。
そしてそのローマに、子どもたちはもう巻き込まれてしまっていた。




