名簿の上の名
カエサルとティロは、そのまま釈放された。
釈放というより、放り出された。
兵に腕を掴まれたまま道へ引かれ、角を曲がったところで手を離される。
離される瞬間がいちばん冷たい。
殺されない。
助けられもしない。
ただ、処分されないだけ。
「帰れ」
兵が言う
「二度と来るな」
カエサルは振り返りたかった。
振り返って叫びたかった。
だが振り返っても、答えが返るわけではない。
返るのは槍の穂先だ。
その現実を、さっき身体で覚えたばかりだった。
ティロが震える声で言った。
「……帰ろう」
「今夜は、生きて帰る」
「それが、今できる唯一の勝ちだ」
カエサルは頷けなかった。
頷いたら、負けを認める気がした。
それでも足は動いた。
動く足が、負けを認めている。
その矛盾が、胸の中で痛みになった。
帰路の途中。
突然、光景がよみがえった。
灯りの下。
縛られた叔父。
短い音。
赤。
倒れる身体。
それを見ていた自分の目。
あの場では怒りが勝っていた。
理不尽さが勝っていた。
だから吐かなかった。
吐く暇がなかった。
今、静かな道で、冷静になって、身内が殺される光景が胸の中で再生された。
再生された瞬間、胃がひっくり返った。
足が止まる。
喉がつまる。
世界が少し傾く。
「……うっ」
カエサルは道わきにうずくまった。
吐き気がこみ上げ、吐くものがないのに吐こうとする。
息が荒れる。
荒れた息が冷たい夜気に混じって白くなる。
ティロが背中に手を当てた。
強く叩かない。
強く叩くと、壊れそうだから。
「見ちゃったんだ」
ティロが小声で言う
「見たんだよ」
「君が弱いわけじゃない」
「見たのに平気な方が、たぶん壊れてる」
その言葉が、慰めにならない。
慰めにならないのに、救いになった。
救いは、いつも不完全だ。
しばらくして落ち着き、二人は家へ向かった。
扉が見えた瞬間、足が少しだけ速くなる。
家は守りだ。
守りは狭い。
狭いから、今はありがたい。
玄関には母アウレリアが待っていた。
灯りは低い。
だが母の目は暗くない。
暗さに慣れた目だ。
慣れた目は、泣かない。
泣かないことで家を支える。
アウレリアは二人の顔を見て、すべてを察した。
察しても、詳しくは聞かない。
聞けば言葉になる。
言葉になれば札になる。
母はそれを知っている。
「帰ってきたのね」
アウレリアが言う
「怪我は」
カエサルは首を振った。
怪我はない。
怪我はないのに、内側が痛い。
母は布を差し出し、手を洗わせた。
水の冷たさが指先に刺さる。
刺さる冷たさが、現実へ引き戻す。
アウレリアは優しく言った。
優しいのに、刃がある。
家の刃だ。
「父さんや家にだけは迷惑をかけないでね」
カエサルの胸が沈んだ。
迷惑をかけない。
それは、何もしないという意味ではない。
だが今のカエサルには、どうすれば迷惑をかけずに止められるのか分からない。
分からない自分が情けない。
「……分かった」
カエサルが言う
「でも」
「でも、俺は」
言葉が続かない。
続けると泣きそうになる。
泣きそうになる自分がさらに情けない。
情けなさを見せたくなくて、カエサルは俯いた。
翌日。
広場にはいつもの名簿が貼られていた。
人が群がっている。
群がるのは、好奇心ではない。
確認だ。
自分の名はあるか。
友の名はあるか。
敵の名はあるか。
生きているか。
次に死ぬか。
それを確かめに来る群れ。
カエサルは遠くから見ただけで分かった。
ルキウスとストラボの名は、そこに加わっている。
加わっていることを知りながら、詳しく見る気になれなかった。
見ると、昨日の夜がまた戻る。
戻ってきたら、自分の中がまた吐く。
カエサルは視線を逸らし、その場から離れた。
逃げたのではない。
今は、近づけない。
近づけないことを、ようやく自分で認めた。
ローマでは、キンナとマリウスの二大体制が整った。
整った、という言い方がすでに皮肉だ。
整ったのは制度ではない。
力の配置だ。
力の配置が整うと、人は黙る。
黙った街は、一見平和に見える。
だがその平和は、血の上に敷かれた布だ。
ユリウス家にも陳情や恐喝が来るようになった。
門を叩く音が増える。
名を呼ぶ声が増える。
封蝋のついた紙が増える。
紙が増えるのは、助けを求める紙でもある。
脅しの紙でもある。
どちらも、家の壁に重くのしかかる。
父と母が懸命に対応した。
だが父は次第に顔色を落とし、ついに寝込んでしまった。
寝込んだのは病ではない。
心の疲れが、身体へ降りたのだ。
中庸の限界が、血の色になって表に出た。
母アウレリアが前に出ることになった。
母は書付を読み、使いを選び、声の高さを変え、礼の角度を調整した。
戦場で陣形を組むように、家を守る陣形を組む。
その姿を見て、カエサルは言葉を失う。
剣の英雄より強いものがある。
それが家の中にいる。
ある夕方。
カエサルは母の側で、来客の声を聞き分けていた。
要求。
哀願。
取引。
脅迫。
どれも同じ扉を叩く。
扉は区別できない。
区別するのは、母の耳と目だ。
客が去った後、カエサルは耐えきれずに言った。
「母上」
カエサルが言う
「どうして、こんなに」
「どうして、家が戦場みたいになる」
「俺は剣の稽古をしてるのに」
「剣じゃ守れない」
アウレリアは水差しを置き、カエサルの顔を見た。
その目は優しい。
優しいのに、逃げ道がない。
「剣は守れる」
アウレリアが言う
「でも剣は近いものしか守れない」
「家を守るには、近いものと遠いものの両方が必要なの」
「言葉」
「紙」
「縁」
「そして、黙ること」
カエサルは拳を握った。
黙ることが守りになる。
そんな世界が嫌だ。
嫌なのに、それが現実だ。
アウレリアが続ける。
「あなたは今」
アウレリアが言う
「怒る気持ちを持っていていい」
「悲しむ気持ちも持っていていい」
「でも家の中では」
「その気持ちを刃にしないで」
「刃にしたら、相手が喜ぶ」
「相手はあなたの刃を理由にできるから」
カエサルは俯いた。
昨日までの自分なら、反発していたかもしれない。
だが今は反発できない。
名簿が頭に残っている。
ルキウスとストラボが、紙の上の名になった現実が残っている。
「……俺は」
カエサルが言う
「どうすればいい」
アウレリアは少しだけ微笑んだ。
慰めの微笑みではない。
道を示す微笑みだ。
「生きなさい」
アウレリアが言う
「学びなさい」
「強くなりなさい」
「そして、家を守れる大人になりなさい」
「今はそれで十分よ」
ローマはキンナとマリウスの二大体制となった。
ユリウス家も、否が応でも動乱に巻き込まれていく。
巻き込まれるというのは、流されることではない。
流れの中で、溺れない形を探すことだ。
カエサルはまだ子どもだった。
だが名簿の夜が、彼を子どものままにはしてくれなかった。




