夜の名簿
夜。
ユリウス家の灯りは低く、戸は早く閉まっていた。
家が眠っているのではない。
家が息を殺している。
息を殺す家ほど、外の足音に敏感になる。
カエサルは寝台の中で目を開けたまま、天井の暗い木目を数えていた。
数えても眠れない。
名簿の紙の白さが、まぶたの裏に残っている。
白いはずの紙が、血の色に見えるのが嫌だった。
隣の部屋では誰も咳をしない。
咳をしない静けさが、逆に怖い。
静けさの中で、カエサルは改めて決意する。
会いに行く。
英雄に。
本人に。
止めろと言う。
止められないなら、せめて理由を聞く。
戸の軋みを避けて、慎重に家を抜けた。
庭の砂利を踏まないように、石の端を選んで歩いた。
外気は冷たく、冷たいのに頭だけ熱い。
門の外で、ティロが待っていた。
待っている目は迷いを抱えている。
迷いを抱えたまま来てしまうのが、ティロの勇気だ。
「本当に行くの」
ティロが小声で言う
「今夜は特に見回りが多い」
「見つかったら」
「見つかってもいい」
カエサルが言う
「見つかる方が、まだましだ」
「家で黙って待つと」
「俺の中が先に壊れる」
ティロは返事を飲み込んで頷いた。
頷きが遅い。
遅い頷きは、覚悟の重さだ。
二人は影の濃い路地を選び、マリウスの家へ向かった。
夜のローマは、昼より広い。
広いのに逃げ道は少ない。
扉が閉まっているからだ。
閉まった扉は、守りであり、拒絶でもある。
門に着くと、門番が出てきた。
槍を持っている。
槍の先が月明かりを拾って、冷たく光る。
「こんな時間に、子どもだけで何の用だ」
門番が言う
「帰れ」
カエサルは一歩前に出た。
声を低くした。
大人の声の真似をする時、彼は無意識にそうなる。
「ユリウス家の者だ」
カエサルが言う
「マリウス叔父上に会いに来た」
「話がある」
門番の目が変わった。
札の貼り方を変える目だ。
ユリウス。
その名が、扉の厚みを少し変える。
「……ユリウスか」
門番が言う
「なら、なおさら帰れ」
「今夜、ここにいる方じゃない」
「マリウスは家にいない」
「どこへ行った」
カエサルが言う
「いつ戻る」
門番は口を閉じた。
閉じた口は答えだ。
答えられない。
答えると誰かが死ぬ。
そういう種類の沈黙だった。
ティロがカエサルの袖を引いた。
引き方が弱い。
止めたいのに、強く止められない引き方。
「いないなら」
ティロが囁く
「帰ろう」
「今夜は無理だ」
カエサルは首を振った。
いない。
それで終われるほど、胸の曇りは軽くない。
「キンナの家だ」
カエサルが言う
「キンナなら、いるかもしれない」
二人はキンナ邸へ向かった。
大きな門。
静かな屋敷。
屋敷の静けさは、眠りではなく準備の静けさだ。
門番は出てきたが、最初から表情が硬かった。
硬い表情は、断る準備ができている表情だ。
「取り次げない」
門番が言う
「帰れ」
「頼む」
カエサルが言う
「少しだけでいい」
「話をさせてくれ」
「だめだ」
門番が言う
「子どもが来る場所じゃない」
門番の背後で足音がした。
布の擦れる音が、屋敷の奥から近づいてくる。
キンナの奥方が現れた。
そしてその少し後ろに、コルネリアがいた。
灯りの下で髪が綺麗に光る。
その光が、今夜はやけに痛い。
奥方が言う。
「ユリウス家の」
「どうしてこんな夜に」
カエサルは喉が乾くのを感じた。
言葉を選びたいのに、時間がない。
時間がない焦りが、声を短くする。
「キンナは」
カエサルが言う
「どこにいる」
「会いたい」
奥方は一瞬だけ目を伏せた。
伏せた目は、答えの代わりだ。
「出かけています」
奥方が言う
「戻りは分かりません」
「今夜は帰りなさい」
コルネリアがカエサルを見た。
あの柔らかい笑みはない。
けれど目は逃げない。
檻の住人の目だ。
「今夜は」
コルネリアが小さく言う。
「良い夜じゃない」
ティロが奥方に頭を下げた。
必死に礼を形にする。
形にしないと、ここで札を貼られる。
賢い者の恐れだ。
「失礼しました」
ティロが言う
「すぐ帰ります」
「カエサル、帰ろう」
「……帰れない」
カエサルが言う
「二人ともいないなら」
「どこにいるか、探す」
ティロの顔色が変わった。
探す。
それは子どもの言葉ではない。
戦場の言葉だ。
「もうやめよう」
ティロが言う
「見回りが増えてる」
「捕まったら終わりだ」
「終わってるのは今だ」
カエサルが言う
「名簿が貼られてる」
「人が消えてる」
「これで帰って寝る方が、よっぽど終わってる」
奥方はそれ以上止めなかった。
止めても止まらない目だと分かったからだ。
止めるとすれば力で止めるしかない。
だが力で止めれば、ユリウス家との縁に傷がつく。
その計算が、奥方の沈黙を作った。
二人はフォルム周辺へ向かった。
夜の道には兵が多かった。
巡回の足音。
合図の短い笛。
槍が石に触れる音。
通りの角で、誰かが急いで視線を逸らす。
視線を逸らす速さが、怖さの大きさだ。
ティロは何度も止めようとした。
だがカエサルは聞かない。
聞かないというより、聞けない。
胸の曇りが、足を前に押している。
そして二人は、ひらけた場所を見つけた。
人の出入りが多い。
灯りが集まっている。
声があるのに、笑いがない。
その不自然さが、答えだった。
近づくと、匂いが先に来た。
金属。
汗。
そして、血の匂い。
血の匂いが夜気に混じると、甘く感じる瞬間がある。
その甘さが、いちばん気持ち悪い。
人の山があった。
正確には、人々が山のように固まっていた。
その中心に、倒れて動かないものがいくつも見えた。
布。
腕。
靴。
それ以上は、目が勝手に避けた。
カエサルの心拍が上がる。
上がる心拍が耳を塞ぎ、鼓動だけが世界の音になる。
中心に二人の男がいた。
キンナとマリウスだ。
昼に見た時より、さらに近い。
マリウスの黒い気配が、灯りを汚して見える。
その前に、縛られた男たちがいた。
顔を上げた瞬間、カエサルは分かった。
分かってしまった。
分かるはずのない場所で、分かる顔がある。
ルキウス叔父。
ストラボ叔父。
喉が凍る。
声が出ない。
出ないのに、心の中だけが叫ぶ。
何をする気だ。
何をする気だ。
四人の会話が聞こえた。
夜の空気は音を運ぶ。
運ぶ音が、刃になる。
キンナが言う。
「名はある」
「だが民が恐れている」
「恐れを消すには、形が要る」
「形を作るために、お前たちは必要だった」
ルキウス叔父が答えた。
声は掠れているのに、筋が残っている。
「必要なら法で示せ」
ルキウスが言う
「紙で示せ」
「名簿で殺すな」
「名簿は守るためのものだ」
ストラボ叔父が、いつもの皮肉を捨てきれない声で笑った。
笑いが薄い。
薄い笑いほど、悲しい。
「ほらな」
ストラボが言う
「ローマは名前で殺すって言ったろ」
「今日はずいぶん手早い」
「紙より先に刃が出るとは」
マリウスは何も言わなかった。
言葉がないのではない。
言葉を出さない。
出さないことが、命令になっている。
その沈黙が、周囲の兵を動かす。
キンナが視線を落とす。
「止められないのか」
キンナが小さく言う。
「ローマは、これで」
マリウスが初めて口を開いた。
声は低い。
低い声は祈りではない。
裁きの声だ。
「遅い」
マリウスが言う。
「ローマは遅すぎた」
ルキウス叔父が息を吐いた。
息が白くならない夜なのに、息が冷たい。
「英雄が戻ったのに」
ルキウスが言う。
「救いではなく、赤を連れてきたのか」
ストラボ叔父が、ほんの一瞬だけカエサルのいる方角を見た気がした。
気がしただけだ。
見たのかもしれない。
見ていないのかもしれない。
どちらでも、同じだ。
次の瞬間。
処刑人が前に出た。
それが合図だった。
誰も止めない。
止められない。
止めれば次は自分だと、全員が知っている。
カエサルが息をする間もなく、ルキウスとストラボの二人は殺害された。
音が短い。
短い音ほど、現実は逃げない。
カエサルの膝が動いた。
前へ出ようとする。
出なければならない。
出なければ、今夜の自分が死ぬ。
ティロが飛びついた。
カエサルの目と口を塞いだ。
必死に、両手で。
声を出すな。
見えるな。
今は死ぬ。
ティロの全身がそう叫んでいる。
「だめだ」
ティロが震える声で言う
「出たら殺される」
「お願いだ、ここで」
カエサルはティロの腕を振りほどいた。
振りほどく力が自分にあることが、今は憎い。
憎いのに止まらない。
カエサルは前へ出た。
兵が気づく。
槍がこちらを向く。
「誰だ」
誰かが叫ぶ。
その瞬間、カエサルは名を名乗った。
名を名乗るのは武器だと、彼はもう知っていた。
「ユリウスだ」
カエサルが言う
「ガイウス・ユリウスの子だ」
「カエサルだ」
一瞬、空気が揺れた。
ユリウスの名が札の貼り方を変える。
だが今夜、その札は救いではない。
ただの確認だ。
次に殺すべきかどうかの確認。
カエサルはマリウスへ向かって叫んだ。
声は震えていない。
震えていないのが自分でも怖い。
「なんで殺した!?」
マリウスは何も言わなかった。
ただ、顔を動かさずに言った。
「立ち去れ」
それだけ。
それだけで終わりにする。
英雄の口から出る言葉が、それだけ。
カエサルの胸の中で何かが割れた。
割れたのに、涙は出ない。
「友を守るって言ったじゃないか!」
カエサルが叫ぶ
「ローマを救うって」
「救うんじゃなかったのか!」
マリウスは答えない。
答えないまま、周りの兵士に目で命じた。
目で命じられた兵が動く。
動きに迷いがない。
迷いがないのが、いちばん残酷だ。
兵士たちがカエサルの腕を掴んだ。
掴まれた腕が痛い。
痛いのに、それが現実だと分かって少しだけ安心してしまう。
現実の痛みは、悪夢ではないからだ。
カエサルは抵抗した。
だが数が違う。
数が違う時、剣の才は役に立たない。
名前も役に立たない。
ただ運ばれる。
ティロが後ろから追いかけた。
追いかけるしかない。
止めることも、戻ることもできない。
彼の足音が、必死に夜を切ってついてくる。
カエサルは兵に引かれながら、最後に一度だけ振り返った。
そこには英雄がいた。
英雄のはずだったものがいた。
黒い気配の中心に立ち、何も言わず、ただ場を支配していた。
ローマの夜は、もう戻らない匂いがしていた。




