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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第18章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅱ~

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名簿の影

朝の街は、いつも通りの匂いをしていた。

パンの焼ける匂いと、革の匂いと、井戸の湿った石の匂い。

それなのに足元だけが落ち着かない。

人の歩幅が揃わず、目が正面ではなく壁と柱を見ている。

声が減ると、物音が増える。

荷車の軋みがやけに大きく聞こえるのは、そのせいだった。


カエサルはティロと、パイダゴーゴスのヘルメスと街へ出ていた。

本当は家の中にいた方が安全だと分かっている。

分かっているのに、見えない恐怖の方がもっと怖い。

だから歩く。

歩いて確かめる。

確かめて、戻って、息を整える。

それが今のカエサルの癖になっていた。


角を曲がった先に、人だかりがあった。

人だかりは騒がしいはずなのに、声が低い。

低い声が重なって、ひそひそではなく唸り声みたいになる。

子どもを抱き上げて目を塞ぐ女もいれば、背伸びして紙を覗き込む男もいる。

そこに貼られていたのは名簿だった。

名簿というより、札だ。

紙に書かれた札が、人の生死に触れている。


ティロの肩が小さく跳ねた。

ヘルメスがすぐにカエサルの前へ腕を出す。

止める腕ではない。

近づきすぎない距離を作る腕だ。


「見るなら、ここからだ」

ヘルメスが言う

「近づくほど、足を取られる」


カエサルは紙を見た。

名前が並んでいる。

知っている名も混じっている気がした。

混じっている気がするだけで、胸の奥が冷える。

名前の横に、短い言葉が付く。

罪だとか、裏切りだとか、国家の敵だとか。

言葉は整っている。

整っているのに、血の匂いがする。


誰かが言った。


「マリウスが粛清を進めてるらしい」

「逆らった貴族の名が出てる」

「今度は誰だ」


別の誰かが言った。


「名が出たら終わりだ」

「戸を閉めろ」

「口を閉めろ」


カエサルは喉の奥が苦くなった。

英雄が戻ったら救われるかもしれない。

そんな期待は、紙の一枚で簡単に潰れる。

紙が人を守る限界を、ルキウス叔父は教えてくれた。

今はその紙が、人を殺す側に回っている。


ティロが小さく言った。


「……これ、止められないのかな」

「法とか、手続きとか、そういうものは」


「今は法より先に、恐れが走ってる」

ヘルメスが言う

「恐れが走ると、誰も責任を取りたがらない」

「責任がない場所では、紙は凶器になる」


カエサルは名簿から目を離せなかった。

離したら、現実が勝ってしまう気がした。

勝ってしまうのが嫌だった。

嫌なのに、勝っている。


「……やめさせられないのか」

カエサルが言う

「叔父上は英雄だ」

「英雄なら、こんなことは」


言い終わらないうちに、自分の言葉が幼いと分かった。

英雄でも限界がある。

母が言った。

それでも、目の前の紙を見れば、限界という言葉では済まない。


カエサルは胸の奥で決めた。

父ガイウスに言ってみよう。

だめもとでもいい。

止められないか。

やめさせられないか。

家の縁を通してでも。

言葉を通してでも。

あの紙を、せめて少しでも薄くできないか。


帰宅すると、家の空気がさらに重かった。

玄関に、見慣れた外套があった。

ルキウス叔父だ。

紙の匂いのする叔父が、今日は紙より疲れて見えた。


応接の間で、ルキウスと父ガイウスが向かい合っていた。

二人とも顔が削れている。

削れているのに姿勢は崩していない。

崩すと家が崩れるからだ。


ルキウスが言った。


「呼ばれた」

「マリウスに」


父が一瞬だけ目を細める。

恐れが形になって、眉間の皺になる。


「仕事だろう」

ルキウスが続ける

「おそらく登録や、文書や、形式の整理だ」

「あの人は剣の英雄だが、剣だけでは街は回らない」


父は頷いた。

頷いているのに、不安が消えない。

不安が消えないのは、仕事の名を借りた別の呼び出しがこの街にあるからだ。


カエサルは口を挟んだ。

挟まずにいられなかった。


「父上」

カエサルが言う

「街に名簿が貼られてた」

「やめさせられないのか」

「叔父上が言えば、少しは」


父は答える前に、ルキウスを見た。

この話をどこまで子どもに聞かせるか。

その確認の視線だった。


ルキウスは笑おうとした。

だがいつもの頼りがいは感じられない。

笑いが薄い。

薄い笑いは、疲れの笑いだ。


「心配するな」

ルキウスが言う

「いざとなったら、得意の口や手八丁でごまかすさ」

「こう見えて私は、剣より紙の方が怖い人間だ」


冗談の形なのに、笑えない。

ごまかすという言葉が、今のローマでは命綱になってしまう。

父ガイウスの顔がさらに固くなる。


「……ルキウス」

父が言う

「無理はするな」

「お前が倒れたら、紙が全部こちらへ回ってくる」


「倒れない」

ルキウスが言う

「倒れるとしたら、椅子の上だ」

「せめて書記らしく死ぬ」


そう言ってルキウスは立った。

外套を整える指が少し震えている。

震えを見せないように、動きが丁寧になる。

丁寧になるほど、怖い。


ルキウスは家を出ていった。

扉が閉まる音が、いつもより重い。


しばらくして、今度はストラボ叔父が来た。

いつものように、不安と笑いを同時にもたらす男だ。

足取りが軽く、口が先に動く。

だが今日は、軽さの下に落ち着かなさが見えた。

笑いが先に出るのに、目が笑っていない。


「いやあ」

ストラボが言う

「ローマは忙しいな」

「人が死ぬと紙が増える」

「紙が増えると書記が増える」

「書記が増えると、間違いも増える」


父ガイウスは笑わなかった。

笑えない冗談は、もう冗談ではない。


「お前も呼ばれたのか」

父が言う。


ストラボは肩をすくめた。


「呼ばれた」

ストラボが言う。

「マリウスに」

「たぶん、話があるんだろう」

「話ってのは便利だ」

「断れない時ほど、話って言う」


父の顔がわずかに歪む。

中庸の顔が、また一段疲れる。


「気をつけろ」

父が言う

「余計なことを言うな」


「余計なことしか言えない性分なんだがな」

ストラボが言う

「まあ安心しろ」

「私は笑って出て、笑って帰る」

「笑えなかったら、その時は本当にまずい」


そう言い残して、ストラボは出ていった。

笑いながら去った。

笑いながら去ったのに、背中が硬い。

硬い背中は、帰り道をもう考えている背中だ。


カエサルは胸の奥がざわついた。

ルキウスも呼ばれた。

ストラボも呼ばれた。

呼ばれるということは、札が動いているということだ。

札が動けば、次は棒だ。

棒の次は槍だ。

父の言葉が頭の中で並ぶ。


その夜、カエサルはティロと小さく話した。

声を落とすのは、家の癖になっていた。


「俺は」

カエサルが言う

「マリウス叔父上に会いに行く」

「直接言う」

「やめろって」

「英雄なら、止められるはずだ」


ティロが顔色を変える。

震えは怒りではない。

恐怖の震えだ。

恐怖の震えでも、言葉ははっきりしていた。


「無理だよ」

ティロが言う

「会えるわけがない」

「会えたとしても、聞いてもらえるか分からない」

「それに今のマリウスは、前に君が見たマリウスと同じじゃない」


「同じじゃないなら」

カエサルが言う

「なおさら、確かめないといけない」

「噂の中で英雄を殺したくない」

「目で見て、口で言って、それで駄目なら」

「その時に考える」


ティロは首を振った。

首を振るだけでは足りないと思ったのか、言葉を重ねる。


「カエサル」

ティロが言う

「君は強い」

「でも今のローマは、強さの種類が違う」

「剣の強さじゃない」

「名前の強さだ」

「名前に近づくと、剣より先に札が貼られる」


カエサルは黙った。

黙って、名簿の紙を思い出す。

あの紙の冷たさ。

自分の胸が曇った感覚。

曇りは消えない。

消えないなら、動くしかない。


「……止めるなら、俺を止めろ」

カエサルが低く言う

「止められないなら、一緒に考えろ」


ティロは答えをすぐに出せなかった。

賢い者ほど、答えの危険を知っている。

だからこそ、沈黙が長い。


その沈黙の長さが、次の日の危険をもう告げていた。

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