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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第18章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅱ~

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赤が咲く日

マリウスが戻ってから、父ガイウスは家にいることが少なくなった。

朝、外套の留め具を確かめる音がして、昼には影だけが通り過ぎ、夜には戸が小さく鳴る。

帰ってくるのはいつも遅い。

カエサルたちが眠った後になることも、珍しくなくなった。

家の中の灯りは低いまま、食卓の湯気だけが浮いて消える。


ローマの空気が、日ごとに赤くなる。

炎の赤ではない。

血の赤が、花のように咲き始める赤だ。

咲き始めると、誰も止め方を知らない。


ある夜。

厠のために目が覚めた。

寝床を抜けると、廊下の石が冷たい。

冷たさが足裏から上がって、眠りの名残を剥がす。

家は静かだった。

静かすぎて、音が遠くまで届く静かさ。


曲がり角の向こうから、声が聞こえた。

父と母の声だ。

低い。

低い声は、子どもに聞かせない声だ。

聞かせない声は、逆に耳に残る。


「いざとなればローマをたつしかない……」

アウレリアの声が言う。


父の声は、返事というより息だった。

息の重さが、返事の代わりになっている。


カエサルは立ち止まった。

いつもなら、聞く。

聞いて、覚える。

覚えて、いつか役に立てる。

そう自分に言い聞かせてきた。


だがこの日ばかりは、あまり立ち聞きする気になれなかった。

聞けば、胸の中の何かが本当に決まってしまう気がした。

“出ていく”という言葉が、家の匂いを変える。

それが怖くて、カエサルはそっと踵を返した。

厠へ向かう足が、さっきより重い。


数日後。

父はカエサルを連れて外へ出た。

行き先を告げる声が短い。

短い声は余裕がない声だ。


「ルキウス叔父上の家へ行く」

父が言う

「お前も来い」


カエサルは頷いた。

父の横顔を見て、息を飲む。

疲れている。

ただの疲れではない。

一枚一枚、何かを剥がされていくような疲れだ。

中庸を続ける者の、最後の踏ん張りの疲れ。


ルキウス叔父の家に着くと、家の空気も同じように硬かった。

紙の匂いはある。

だが紙の匂いが、いつもより酸っぱい。

書記が足早に通り過ぎ、扉が静かに閉まる。

家は生きている。

だが息が浅い。


ルキウス叔父が出てきた。

かつて市民権法を成立させた“書類と法の人”。

凛々しい英雄の姿はそこにはなかった。

肩が落ちているわけではない。

背筋はまだ整っている。

だが目の下が深い。

眠れない夜の溝が刻まれている。

そして指先が、わずかに荒れていた。

紙で戦う者の指だ。

今はその紙が、血を吸い始めている。


「来たか」

ルキウスが言う

「……君も、よく立っているな」


父は礼をして、すぐに本題へ入る。

余計な言葉は危ない。

余計な言葉ほど札になる。

今のローマでは、挨拶さえ刃になりうる。


「状況は」

父が言う

「どこまで進んでいる」


ルキウス叔父は一度だけ目を伏せた。

伏せた目の先に、紙の山がある。

紙の山は、数の山だ。

数は人の命の数だ。


「伸びている」

ルキウスが言う

「粛清の手がどこまで伸びるか……」


その瞬間、父ガイウスが言葉を制した。

制する声は低い。

低いが鋭い。

同じ家の人間でも、ここでは“危険な単語”がある。


「その言葉はやめろ」

父が言う

「壁が聞く」

「床が聞く」

「今は家の中でさえ、言葉が歩く」


ルキウス叔父は唇を結んだ。

反論しない。

反論する余裕がない。

それ自体が、状況の答えだった。


カエサルは黙って二人を見ていた。

理解できないことが多い。

だが理解できないままでも分かることがある。

大人が言葉を恐れている。

剣より言葉を恐れている。

それが一番おかしい。

おかしいのに、現実だ。


ルキウス叔父がカエサルを見る。

視線は責めない。

だが逃がさない。

未来に向けた確認の視線だ。


「お前は」

ルキウスが言う

「覚えておけ」

「市民権は剣より強い」

「そう教えたな」

「だが今は」

「剣が市民権を踏む」


父が短く頷いた。

頷きが、苦い。


「だからこそ」

父が言う

「今は生き残れ」

「生き残って、また紙を取り戻せ」


カエサルは拳を握った。

紙を取り戻す。

そんな言い方が、胸を痛くする。

紙は取り戻すものではないはずだ。

だが今は、奪われている。

奪われているなら、取り戻すしかない。


場面が変わる。

キンナの家。


屋敷の中は、静かだった。

静かだが、静けさの種類が違う。

ユリウス家やルキウス叔父の家の静けさは、身を潜める静けさだ。

ここは、身を構える静けさだった。

命令が通り、足音が揃い、物が整えられていく静けさ。

静けさが、支配の準備になっている。


コルネリアは奥で灯りを見つめていた。

灯りは揺れている。

揺れは風のせいではない。

外の噂と血の匂いが、家の中まで触っている揺れだ。


彼女は思い出していた。

ユリウスの少年。

通りで目が合って、笑ってしまったあの一瞬。

屋敷の廊下で、名を交わした短い会話。

あの少年の目は、怖がっているのに逃げない目だった。

逃げない目は、いずれ札を貼られる目でもある。


父キンナは変わり果てた。

変わり果てた、というより“変わらざるを得ない形”になっていく。

言葉の人が、今は槍の言葉を話している。

ローマを転覆した軍と共に歩き、同盟の縄を結び直し、敵と味方を分類する。

分類は紙の仕事のはずだった。

だが今は血が先に分類してしまう。


コルネリアはローマの行く末を案じていた。

案じているのに、泣いていない。

泣けば弱いのではない。

泣けば揺れる。

揺れは家に伝染する。

だから泣かない。


その代わり、どこか決意めいた表情を浮かべていた。

子どもの決意は脆い。

脆いのに、鋭い。

鋭いから、折れた時に危ない。

それでも彼女は折れない顔を作った。

父の娘としてではなく、家の一部として。


外で何かの音がした。

遠い叫び声。

遠い足音。

遠い門の軋み。

赤が咲く日は、音が増える。

音が増えるほど、人の言葉は減る。


コルネリアは小さく息を吸った。

吸った息を、静かに吐く。

吐く息の中に、祈りの形が混じっていた。

祈りは救いではない。

揺れないための杭だ。


そして彼女は思った。

父は戻る。

戻ると言った。

戻るのは人か。

戻るのは札か。

戻るのは槍か。

もう区別できないまま、ローマは赤に向かって進んでいく。

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