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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第18章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅱ~

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門が開く

マリウスとキンナが軍を連れてローマに戻ってきた。

その噂は火より早かった。

火は道を選ぶ。

噂は道を選ばない。

井戸端で生まれ、酒場で膨らみ、フォルムで形を得て、家々の扉の隙間から入り込む。

ユリウス家にも、息の切れた声として届いた。


「戻ってくる」

父ガイウスが言葉にしなかった言葉が、街の方から勝手に形になって押し寄せてきた。

戻ってくるのは英雄か。

戻ってくるのは恨みか。

戻ってくるのは槍か。

その全部が一緒に見えた。


両親はまた忙しくなった。

手紙が増え、訪ね人が増え、使用人の足音が速くなる。

アウレリアは備えを確かめ直し、父は外套の留め具を整えたまま何度も出入りする。

家の中の灯りが低くなる。

低い灯りは、目立たないための灯りだ。


そしてその日が来る。

ローマの門が開けられる日。

門が開くというのは、ただ木が動くということではない。

街の喉が開くということだ。

開いた喉から入ってくるものが、息になるか血になるか。

誰も分からない。

分からないのに、皆が知りたがる。


カエサルは我慢できなかった。

一目見たい。

見て覚えたい。

見なければ、自分の中の恐怖が噂の形で勝手に膨らむ。

それが嫌だった。


「だめよ」

アウレリアが止めた。

止め方が強い。

強い止め方は、母が本当に怖がっている時の止め方だ。


「見るだけだ」

カエサルが言う

「近づかない」

「叫ばない」

「ただ、見て帰る」


アウレリアは答えなかった。

答えない沈黙は許可ではない。

だが母の手が一瞬緩んだ。

緩んだのは、息子の目が変わったのを見たからだ。

あの日、スッラの足で壊れかけた目が、今は別の硬さを持っている。

止めても、止まらない硬さ。


カエサルは家を抜けた。

抜ける足取りは慎重だった。

速く走らない。

走ると獲物になる。

今のローマでは、子どもでもそれを知っている。


通りは異様だった。

人がいるのに、声が薄い。

薄い声が、門の方角へ吸い込まれていく。

一目見ようと歩く者。

急いで戸を閉じる者。

露店を片づける者。

祈りながら壁に背をつける者。

街の顔が、いくつにも割れていた。


門の近くは、さらに冷えていた。

風のせいではない。

人の緊張が空気を冷たくする。

槍の穂先が並び、革が鳴り、馬の息が白く上がる。

誰も勝利を叫ばない。

誰も歓迎を叫ばない。

あるのは、押し殺した期待と押し殺した恐怖だけだった。


門が開く。

軋む音がした。

木が動く音は、街が痛む音に似ている。


その隙間から、軍旗が見えた。

次に、列。

そして人の顔。


先頭の近くに、男がいた。

キンナ。

噂の名が、肉と骨の形で現れる。

言葉の人だと聞いていたが、今日は剣の匂いをまとっていた。

その隣に、もう一つの影があった。

古い影。

重い影。


マリウス。


カエサルは息を止めた。

母の姉ユリアの夫。

叔父同然の英雄。

昔、帰還の列の中で見た時の目。

勝っていた目。

老いても揺れない歩幅。

鎧の重さに負けない背中。

あの頃の光を、カエサルは覚えている。


だが、今そこにいるものは違った。


似ても似つかない。

身体は確かに同じ形をしている。

近寄り難い雰囲気も、昔からあった。

それでも昔は、輝くオーラがあった。

勝利の匂いがあった。

見る者を鼓舞する何かがあった。


今は違う。

黒い。

黒いのに、影ではない。

黒が輪郭を持っている。

まるでこの世の全てを憎むかのような、どす黒い気配が立ち上っていた。

勝っている目ではない。

奪い返す目だ。

救う目ではない。

裁く目だ。

裁きという言葉は、祈りにもなるが刃にもなる。

今の目は、刃の方だった。


カエサルの背筋が凍った。

希望の目で見ようとした。

英雄が戻るなら、何かが救われるかもしれない。

そう思っていた。

その思いが、一瞬で薄い氷みたいに割れた。


列の端に、少女が見えた。

コルネリア。

あの屋敷の廊下で名乗った少女。

キンナの娘。

父のそばにいる。

顔は硬い。

硬いのに、崩れていない。

崩れていないのが、怖い。

同年代のはずなのに、背負っている空気が違う。

檻の住人の目だ。

檻が動いて、街へ入ってくる。


周囲の市民は二つに割れた。

目を見開いて見ようとする者。

急いで背を向けて戸を閉める者。

祈る者。

唾を飲む者。

誰も拍手しない。

拍手がない帰還は、勝利ではない。

勝利でないのに軍が入る。

それが何を意味するか、皆が薄く理解している。


カエサルはその場から動けなかった。

動けないのは恐怖だけではない。

理解しようとしている。

理解すれば、次の一手が決まる。

理解したくないのに、理解しないと生き残れない。

その矛盾が足を縫い止めた。


門は開いた。

ローマの喉は開いた。

そして入ってくるのは、歓声ではなく沈黙だった。

沈黙の中に、槍の言葉が混じり始める。


カエサルは、これから何が起こるのか想像できなかった。

想像できないからこそ、不安が形になる。

不安が形になった瞬間、彼は思った。

終わった感など最初からなかったのだと。

ローマは、ただ次の顔を用意していただけなのだと。

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