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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第18章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅱ~

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仮面の切れ目

朝のフォルムは、石がいつもより白く見えた。

白く見えるのは光のせいだけではない。

人々がよそゆきの顔をしているからだ。

怒っている者も、怯えている者も、まず言葉の形を整える。

整えた言葉で殴り合うのが、ローマの“礼儀”だった。


父ガイウスはカエサルの手首を軽く掴み、群衆の端へ連れていった。

強く引かない。

だが離れられない。

離れていい場所と、離れてはいけない場所がある。

父の手はそれを知っている。


壇上に立つ男がいた。

キンナだ。

まだ誰も彼を裏切り者と呼ばない。

呼ぶ者がいても、それは小声だ。

小声の段階では、名札はまだ貼り切れない。


キンナの声はよく通った。

怒鳴らない。

けれど群衆の耳が自然に向く。

耳を向けさせるのは、声ではなく構文だとカエサルにも分かった。


「新市民を数えろ」

キンナが言う

「同盟者戦役で血を流した者に、席を与えろ」

「公平に登録し、法の下に置け」

「法が遅いなら、遅さを直せ」

「遅さを理由に排除するな」


“新市民”という言葉が、風の向きを変える。

群衆の中に、頷く顔が増える。

頷きは賛成だけではない。

自分の腹を確かめる動作でもある。


反対派も美しい言葉を持っていた。

壇上の脇から、別の男が声を張る。

口調が整いすぎていて、逆に古い匂いがする。


「秩序を守れ」

反対派が言う

「伝統を崩せば混乱が来る」

「混乱は暴力を呼び、暴力は街を壊す」

「新しい者を迎えるなら、順序がいる」

「順序を無視する者は、法を愛しているのではない」

「法を盾にして、席を奪うだけだ」


どちらももっともらしかった。

どちらもローマの言葉を使っている。

公平。

秩序。

法。

伝統。

どれも正しい顔をしている。

カエサルは一瞬、政治は言葉で進むのだと思ってしまった。

剣より先に、言葉が列を作るのだと。


父の横顔は動かなかった。

動かない横顔は、まだ結論を出していない横顔だ。


しかし言葉の勝負は、突然ほどけた。

ほどけ方は、いつも同じだ。

誰かが押す。

押された誰かが押し返す。

押し返された誰かが怒鳴る。

怒鳴り声が正義の旗になる。

旗が立つと、棒が動く。


群衆が割れた。

割れたのではない。

裂けた。

裂け目から石が飛んだ。

石は議論を選ばない。

当たった者の頬が裂け、血が出る。

血が出ると、言葉の美しさが一瞬で汚れる。


衛兵が棒を構えて突っ込んだ。

棒が振り下ろされると、人は黙る。

黙る速度が、演説より速い。

「意見」が消えていく。

消えるのは理屈ではなく、口だ。

言いたい者が言えない空気が、石畳の上に敷かれる。


父がカエサルを引き寄せた。

目を覆うためではない。

肩を抱いて、見える角度を変える。

逃がさない。

そして、短く言った。


「見ろ」

父が言う

「だが覚えろ」

「票は手だ。だが手は、棒に負ける」


その一行が、カエサルの胸に落ちた。

票は正しい。

だが正しさの手は、棒の痛みに負ける。

負けるから、手は握り直される。

握り直された手が、今度は石を掴む。

そうやって街は回る。

言葉で始まった勝負が、棒と石で終わる。

政治は言葉で進む。

そう思った仮面が、この瞬間、ひび割れた。


夕方。

家に戻ると、玄関の空気が冷たかった。

使いの者が来ていた。

息が切れている。

息の切れ方が、良い知らせの切れ方ではない。


父は蝋板を受け取り、目を走らせた。

走らせた目が途中で止まり、止まったまま戻ってこない。

アウレリアの指が静かに止まる。

止まる指は、もう察している指だ。


カエサルが問う。

喉の乾きが先に来る。


「何があった」


父はすぐに答えない。

答えない間に、家の中が“待つ”姿勢になる。

そして父は、言葉を選びながら言った。


「キンナは執政官だ」

父が言う

「それなのに、追い出された」


カエサルは理解できなかった。

執政官はローマで一番偉いと教わった。

偉い者が追い出されるなら、偉さとは何だ。

制度が制度を否定する。

それは子どもの頭では形になりにくい異常だった。


父は机に手紙を並べ、論点を置くように説明した。

元老院の決議。

誓いの破棄。

権威の空洞化。

誰が誰を正当と呼ぶかが、紙の上で揺れる。

揺れた紙は、槍より怖い時がある。


父が言った。

声が低く、硬い。

硬い声は、もう希望を語らない声だ。


「ローマは、役職の上に立っているのではなく、力の上に立ち始めた」


アウレリアが、ほとんど囁きで続けた。

母の声は、家の壁の内側に入る情報だけを運ぶ。


「法の言葉が尽きたとき、人は“別の言葉”を使う。それは、槍」


槍。

その言葉が出た瞬間、家の中の温度が変わった。

紙の戦争が、いつでも剣の戦争に戻れると宣言したように聞こえた。


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