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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第18章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅱ~

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髪の光と、家の影

数日後。

カエサルは父ガイウスに連れられて外へ出た。

目的は買い物ではない。

剣の稽古でもない。

家同士の連絡だと父は言った。

その言い方だけで、行き先が“人”ではなく“家”であることが分かる。


通りは平穏の顔をしていた。

だが平穏は、布の表だけに染みている。

裏側にはまだ固い糸が残っていて、引けばすぐ歪むような気配があった。


歩きながら、カエサルは我慢できずに聞いた。


「父上。キンナは追い出されたんだろ」

「なのに、なんでキンナの家に行くんだ」

「本人がいないのに、行って意味があるのか」


父はすぐに叱らなかった。

叱ると、質問の芽が潰れる。

今は潰すより、伸ばして形にする方がいい。

父はそう判断した顔で答えた。


「人に会いに行くこともある」

父が言う

「だが家に会いに行くこともある」

「キンナがいなくても、屋敷は残る」

「奥方も、家人も、縁も残る」

「今のローマでは、“いない者”ほど影響が残る」

「その影響の流れを、家は受け続ける」


カエサルは眉を寄せた。

人がいないのに影響が残る。

剣よりややこしい。


「それって」

カエサルが言う

「札みたいなものか」

「貼られたら、本人がいなくても残る」


父は小さく頷いた。

頷きは肯定であり、警告でもある。


「そうだ」

父が言う

「だから札の貼られた家ほど、放っておくと危ない」

「敵にしても味方にしても」

「放っておくのが一番、相手の都合になる」


キンナ邸の門が見えた。

大きな家は、門だけで圧がある。

圧は誇りでもあるし、防壁でもある。

だが今の圧は、どこか不自然だった。

人の出入りの音が少ない。

少ないのに、使用人の動きは速い。

速い動きは、日常ではなく準備の動きだ。


門で名乗ると、すぐに通された。

通される速さが、家が“待っていた”速さだった。

廊下の石は冷たい。

柱の影が深い。

灯りはあるのに、家全体が声を落としている。

声を落とす家は、外で何が起きているかを知っている家だ。


玄関で使用人が頭を下げ、奥方が迎えに出た。

派手ではない。

だが身に着けるものの質が違う。

質の違いは、言葉の丁寧さにも出る。


「ユリウス家の方に、ようこそ」

奥方が言う

「このような時節に、足をお運びいただき感謝します」


ガイウスは深く、しかし過剰ではない礼を返した。

礼の角度にも政治がある。

深すぎれば媚びに見え、浅すぎれば敵意に見える。

父の角度は、その中間にきちんと置かれていた。


「本日はご挨拶と、家同士の確認を」

ガイウスが言う。

「ご心配の中、時間をいただきたく申し上げます」


応接の間へ通される道中。

廊下の先に、人影が見えた。

薄い光の下で髪が綺麗に揺れている。

その髪の色と、目の形に、カエサルは覚えがあった。


あの時の少女だ。

通りで目が合って、にっこり笑った少女。


カエサルの足が一拍遅れた。

自分でも分かるほど露骨に。

胸が勝手に熱くなり、喉が乾く。

剣の前では乾かない喉が、今は乾く。


少女もこちらに気づいた。

そして、少しだけ目を丸くしてから、柔らかく笑った。

あの時と同じ笑い方。

同じなのに、屋敷の静けさの中だと別の意味に見える。


「あら」

少女が言う

「この前の」


カエサルは言葉が詰まり、視線が彷徨った。

視線が逃げる先がない。

屋敷の廊下は長いのに、逃げ道は短い。


ガイウスが気づいた。

気づいたが、表情は動かさない。

動かさずに問いを置く。


「知り合いか」

父が言う

「随分、顔が違う」


「ち、違う」

カエサルが言う

「知り合いじゃない」

「道で、たまたま見かけただけだ」

「それだけだ」


少女は少し首を傾げた。

首を傾げる仕草が上品で、上品だから余計に落ち着かない。


「たまたま、で」

少女が言う

「こんなふうに覚えているのね」

「私は覚えているわ」


カエサルは返す言葉を探した。

探す間に頬が熱くなる。

ルフスが見たら笑う種類の熱だ。

ティロなら気づいて小声で刺す種類の熱だ。


少女は軽く身を正し、名乗った。

名乗り方が、家の名乗り方だった。


「コルネリア」

少女が言う

「父は……ご存じの通り、今はここにいません」

「でも私は、この家にいます」


“この家にいます”という言い方が刺さった。

ただの自己紹介ではない。

私は残る。

家も残る。

そういう宣言に聞こえた。


カエサルはようやく口を開いた。

声が思ったより小さかった。


「ユリウス家の」

カエサルが言う

「……カエサルだ」

「この前は」

「びっくりして、何も言えなかった」


コルネリアは笑った。

笑うが、はしゃがない。

笑い方が、もう大人の手前にいる。


「言えなかったのは、私も同じよ」

コルネリアが言う。

「父の名前が呼ばれるたびに」

「人の顔が変わるから」

「だから、笑う場所を選ばないといけないの」


その言葉に、カエサルは息を飲んだ。

同年代の口から出る言葉ではない。

だが屋敷の空気が、それを自然にしてしまう。

彼女は檻の住人だと、頭のどこかが静かに理解した。


父ガイウスが一歩前に出て、場の角を丸くした。

丸くするのが上手いのは、ガイウスの強さだ。


「ご令嬢にお会いできて光栄です」

ガイウスが言う

「息子は武骨で、言葉が遅く申し訳ございません」

「だが失礼をするつもりはございません」


「武骨なのは、悪いことではありません」

コルネリアが言う

「今のローマでは特に」


その“今のローマ”が、廊下の温度を少し下げた。

ガイウスは軽く頷き、応接の間へ促した。


応接の間。

蝋板と封蝋と、きちんと揃った椅子。

ガイウスとキンナの奥方は、静かに話し始めた。

声は小さい。

小さいのに、内容は重い。


「ご主人は、戻られる見込みは」

ガイウスが言う。


奥方は、言葉を選んで答えた。

選ぶというより、言える範囲を測っている。


「戻る、と言い切れる者はおりません」

奥方が言う

「ですが、夫は“引き下がる”人ではありません」

「家としては」

「軽率に敵を増やすつもりも、軽率に味方を増やすつもりもありません」


ガイウスは頷く。

その頷きは“理解”というより“共有”だった。

今は誰も、軽率でいられない。


「ユリウス家としても同じです」

ガイウスが言う。

「どちらかに名を預けるほど、状況が固まっていない」

「ただ」

「家同士の縁を切るのは、もっと危険だ」

「縁を切った瞬間に、札が貼られる」


奥方がゆっくり言う。


「札は」

奥方が言う

「貼られる前に、貼られると決められます」

「怖いのは札そのものより」

「札を貼る“空気”です」


ガイウスは目を伏せた。

空気。

それは棒と石の話に繋がる。

言葉の仮面が裂けた後に残るものだ。


「息子を連れてきたのは」

ガイウスが言う。

「いずれ、家の主になるからです」

「今は理解できなくても」

「理解できないままでも」

「匂いだけは覚えさせたい」


奥方がわずかに息を吐く。

同意と疲れが混じった息だった。


「子どもは」

奥方が言う

「覚えるのが早いので。それがいいところでも悪いところでもあります」


話はそれ以上深くならなかった。

深くしないのが礼儀であり、保険でもある。

言葉の戦争では、言い過ぎが命取りになる。


帰り道。

夕方の光が長く伸び、石畳の影が濃くなる。

家へ向かう足取りのはずなのに、カエサルの頭は落ち着かなかった。

札。

政治。

法。

家。

縁。

空気。

どれも輪郭がぼやけたまま、胸の中でぶつかり合う。


「父上」

カエサルが言う

「俺は、まだよく分からない」

「分からないことが多すぎて」

「頭が変になる」


ガイウスは歩きながら答えた。

答え方が、責めではなく手綱だった。


「今はまだいい」

ガイウスが言う。

「だが、いずれお前も一家の主となる」

「その時には概要だけでもつかんでおく必要がある」

「全部を理解しろとは言わない」

「だが匂いを知っていれば、危険の前で足が止まらない」


カエサルは頷いた。

頷きながら、さっきの廊下の髪の光を思い出してしまう。

思い出すと、また頬が熱くなる。

それをガイウスが見逃すはずがなかった。


ガイウスは珍しく、口元を少しだけ緩めた。

その緩みが、今日一番の救いだった。


「それと」

父が言う

「女の子の誘い方などもな」

「目だけで固まるのは、剣の稽古にはならん」


カエサルは顔が一気に熱くなった。

耳まで熱い。

言い返したいのに、言い返す言葉が見つからない。


「うるさい」

カエサルが言う

「見てない」

「ただ、たまたまだ」


ガイウスは笑いを抑えるように咳払いをした。

抑えきれていない。

ローマが揺れている時ほど、家の中の小さな茶々がありがたい。

小さな茶々は、まだ家が家でいられる証拠だからだ。


カエサルは歩きながら思った。

檻の住人の目。

家の影の匂い。

そして、自分の胸が勝手に熱くなること。

世界は怖い。

だが怖い世界の中でも、心は勝手に何かを選ぶ。

それが、人の弱さであり、強さの種でもあるのかもしれなかった。

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