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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第18章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅱ~

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去っていく列と、残る名

朝。

ユリウス家の玄関は、いつもより早く開けられていた。

冷えた空気が敷居を越え、家の中の匂いを一度だけ薄めていく。

通りの石畳はまだ湿っていて、踏む音が小さく響いた。

遠くから、行列の気配が見えた。

軍靴の揃った音。

革の擦れる音。

金属の留め具が触れ合う音。

音が近づくほど、人々の声は逆に減っていく。


軍が去っていく。

去っていくのに、歓声がない。

拍手もない。

誰かが勝利を叫ぶこともない。

あるのは祈りだけだった。

掌を組み、口元だけを動かして、声にしない祈り。

声にしたら壊れるものを、皆が知っているような沈黙。


市民の顔には安堵が浮かんでいる。

だが安堵の仕方が不自然だった。

笑いがない。

肩の力だけが落ちて、目は落ちない。

喜びではなく、ただ生き延びたという安堵。

それは戦が終わった街の顔ではなく、次の戦を待つ街の顔に見えた。


カエサルは玄関の影から背伸びをした。

行列の先頭が遠ざかり、軍旗が揺れて、小さくなっていく。

去っていくものは軽く見える。

軽く見えた瞬間だけ、頭が勝手に言ってしまう。

もう終わったのではないかと。


カエサルが口を開く前に、母の横顔が先に答えを出していた。

アウレリアは表情を変えない。

だが目の奥が緊張を解いていない。

解いていない目は、終わっていないと言っている。


カエサルはそれでも言ってしまう。

言葉にしないと、胸の中の揺れが収まらない。


「行ったら、戻ってくるよね」


アウレリアは行列から目を離さずに返した。

返し方が静かで、静かなほど重い。


「戻るものもあれば、戻らないものもある。ローマは特に」


カエサルは喉の奥が少し乾いた。

戻らないもの。

兵だけではない。

噂。

恨み。

札。

そして、名前。

去っていく列を見送る人々の沈黙が、それを全部含んでいた。


昼。

家の中に戻ると、机の上の戦場が待っていた。

蝋板。

手紙。

名簿。

封蝋の欠片。

乾いた筆跡の匂い。

父ガイウス・ユリウスはそこに座っていた。

座っているのに、背中が落ち着かない。

落ち着かない背中は、心が外にいる背中だ。


父は東方の話をした。

ミトリダテス。

アジアの州。

艦隊。

金。

港。

徴税。

勝てば莫大な富が動く。

負ければ同盟が離れる。

戦の地図は遠い。

遠いのに、父の声はどこか上の空だった。

怖がっているのは東方の海ではない。

ローマの石畳の方だと、カエサルにも分かってしまう。


カエサルは椅子の端で問うた。

口の中で転がしていた疑問を、ようやく外に出す。


「父上。軍が去ったなら、少しは安全になるのか」

「もう、あの足は戻ってこないのか」


父はすぐに答えなかった。

答えられない沈黙がある。

父はその沈黙を、理屈に変えてから差し出した。


「東方で勝てば英雄になる」

父が言う。

「英雄はローマで何をすると思う」

「歓声を浴びる」

「敵を作る」

「味方を固める」

「そして、必要なら軍を連れて街に入る」


カエサルは眉を寄せる。

軍を連れて街に入る。

それはもう“できる”と証明された。

証明は、次の許可になる。


父は続けた。

言い切るのではなく、釘を打つように。


「軍を連れて街に入った者は、次も入れる」

「それを誰も止められなかった」

「止められなかったという事実が、次の者の背中を押す」


カエサルは息を飲んだ。

勝って戻ってきても血が向かう。

負けて戻れなくても、恨みが育つ。

どちらでも本国が安全とは言えない。

父が「戻ってくる」と言い切れない理由が、そこにあった。


「戦争が終わる前に、恨みが育つ」

父が低く言う。

「恨みは畑みたいに増える」

「刈り取る前に、次の種が撒かれる」

「だから終わったと言える日が来ない」


その理屈が、カエサルの頭に刺さった。

刺さったまま抜けない針のように残った。

剣より小さいのに、剣より痛い。


午後。

フォルムへ行かなくても噂は家に入ってくる。

噂は扉を選ばない。

使用人が水瓶を運びながら、門番が戸締まりを確かめながら、隣家の女が布を干しながら持ち帰る。

そして噂は、名前を連れてくる。


次の執政官選挙の話。

新市民の登録。

同盟者戦役の結果、権利を得た人々の扱い。

誰をどの部族に入れるか。

誰の票が増えるか。

古い貴族の席がどうなるか。

紙の上で席を動かす話が、また火種になっている。


噂の中で、ひとつの名が立ち上がった。

キンナ。

まだ裏切り者と呼ばれてはいない。

むしろ“理解がある”と囁かれている。

新市民の扱いに理解がある。

口がうまい。

うまいからこそ、危険だと恐れられる。


通りで聞いた言葉が、家の中でも繰り返される。

温度差だけが違う。


とある市民の声が聞こえた気がした。

「キンナは“新しいローマ”を言うらしい」


別の声がすぐ返す。

「新しい。じゃあ古い者を捨てるのか」


さらに別の声が、もっと低く落ちる。

「スッラがいない間に動くつもりだ」


その三つの声が重なると、噂はただの話ではなく、刃の形になる。

新しいローマ。

古いローマ。

捨てる。

動く。

言葉はまだ柔らかいのに、未来の血を予感させる。


そして、噂は最後に別の飾りをつけた。

飾りの形をしているが、飾りではない。

家の匂いがする噂だ。

勝者の家の気配。


「キンナの娘がな」

そんな言い方で、名前が付け足される。

娘の話をするのは、婚姻の話が出るからだ。

婚姻は家と家を結ぶ。

家と家が結べば、票と剣が結ばれる。

結ばれたものは、離れにくい。


カエサルはその噂を聞きながら、母の顔を見た。

アウレリアは表情を変えない。

変えないが、指が一度だけ止まった。

止まった指が、噂の重さを肯定していた。


去っていく列。

言い切れない父。

そして、キンナという名。

終わった感は、朝の沈黙の中で一度だけ見えた。

だが昼の理屈と午後の噂が、それをすぐにひっくり返す。


ローマは終わらない。

終わらないからこそ、次の名が生まれる。

次の名が生まれるからこそ、また誰かが膝をつく。

カエサルはその循環を、まだ完全には理解できない。

だが、理解できないままでも、ひとつだけ確かに分かっていた。

終わったふりをする時ほど、ローマは危ない。

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