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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第17章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅰ~

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身を潜める家と、笑う少女

スッラがローマ軍を乗っ取ってから、しばらく。

ユリウス家は息を潜めて暮らしていた。

戸は早めに閉められ、灯りは低くされ、来客は選ばれる。

使用人の足音も、小さくなる。

小さくなるほど、家の中の空気は硬くなる。


それでも杞憂とは裏腹に、特段スッラから被害を受けることはなかった。

名簿に名前が載ったわけでもない。

扉が蹴破られたわけでもない。

“札”が貼られていないだけで、毎日が勝利のように感じられる。

そんな勝ち方があることを、カエサルは最近覚え始めていた。


ある日。

久しぶりに空が澄んでいた。

空が澄むと、街も澄んだふりをする。

人の顔が少しだけ普段に戻り、屋台の声も戻る。

戻るほどに、怖さが見えにくくなる。

見えにくい怖さは、いちばん厄介だ。


カエサルはティロとルフスと一緒に、アリーナへ向かっていた。

歩き方はいつも通りに見せている。

いつも通りに見せるのが、今のローマで生きる術になっていた。


その途中。

人混みの端に、同年代くらいの少女が見えた。

背は高くない。

髪は整えられ、衣の縁が綺麗だ。

貴族の娘だと、雰囲気だけで分かる。

手を引いているのは父親らしい男で、男の視線は周囲を警戒している。

警戒している目は、今のローマの目だ。


少女はふと顔を上げた。

そして、カエサルと目が合った。


その瞬間、少女はにっこり笑った。

恐怖が溶け込んだ街の中で、場違いなくらい自然な笑みだった。

笑みは軽くて、明るい。

明るいから、逆に胸の奥に刺さる。

こんなふうに笑える人間がいる。

それだけで、世界が少しだけ違って見える。


カエサルは思わず足を緩めた。

呼吸が一拍遅れる。

頭の中が空白になる。

剣の稽古で間合いを読む時とは違う種類の“間”が生まれる。


少女は父親に手を引かれ、すぐに人波に消えた。

消える直前まで、笑みは残っていた。

残っているのに、もういない。

それが余計に、夢みたいだった。


「おい」

ルフスが言う

「今の見たか」

「お前、完全に止まってたぞ」


ティロも目を丸くして言う。


「カエサル」

ティロが言う

「今、剣より速く刺さってた」

「胸の真ん中に」


「刺さってねぇ」

カエサルは顔を赤くして言う

「ただ、目が合っただけだ」

「目が合ったら、そりゃ見るだろ」


ルフスが笑う。

笑いが久しぶりに悪意のない笑いだった。


「見るのはいい」

ルフスが言う

「見惚れるな」

「見惚れたら負けだ」


「何に負けるんだよ」

カエサルが噛みつく


「自分にだよ」

ルフスが言う

「お前はいつも自分に勝ちたい顔してるのに」

「今日は負けてた」


ティロが小声で追い打ちする。


「頬、赤いよ」

ティロが言う

「砂より赤い」


カエサルはますます熱くなった。

熱くなると、言葉が短くなる。

短くなると、二人が余計に喜ぶ。


「うるさい」

カエサルが言う

「今日は二人とも、稽古で叩きのめす」

「口じゃなくて、剣で黙らせる」


「出た」

ルフスが言う

「それがいつものユリウスだ」


ティロも笑った。

ティロが笑うのを見るのは、久しぶりだった。

スッラの足の後、ティロの笑いは減っていた。

減っていた笑いが戻ると、カエサルは少しだけ安心する。

その安心が、胸の奥で温かくなる。


アリーナで汗を流した帰り。

陽が落ちかけ、街の影が伸びる。

影が伸びると、人の不安も伸びる。

家へ近づくほど、空気がまた硬くなる。

ユリウス家の扉は、今日も早く閉じられていた。


帰ると、両親が浮かない顔をしていた。

アウレリアの口元が固い。

父ガイウスの目が疲れている。

疲れている目は、歩いている疲れではない。

選択肢を数え続けた疲れだ。


父が言う。


「今のところ、スッラから特別攻撃は受けていない」

「だがそれも時間の問題かもしれない」

「ルキウス叔父上も、ストラボ叔父上も」

「場合によってはローマから出る準備をしている」

「家も、準備だけはしておく」


カエサルは即座に首を振った。

首の振り方が強い。

強いほど、子どもだ。


「嫌だ」

カエサルが言う

「逃げない」

「ローマから出るなんて」

「それは負けだ」


アウレリアが静かに言う。


「負けではないわ」

アウレリアが言う

「生きるためよ」

「生きていれば、また戻れる」

「死んだら、戻れない」


「でも」

カエサルが食い下がる

「スッラはイケすかない奴だけど」

「あいつは理不尽に人を痛めつけたりはしない」

「そこだけは信頼できる」

「ルールがある」

「ルールがあるなら、逃げる必要はない」


その言葉に、父が長く息を吐いた。

息に呆れが混じる。

呆れの中に、恐怖も混じる。


「……そういうお前は」

父ガイウスが言う

「アリーナでどういう扱いを受けたんだ」

「あれは理不尽ではなかったのか」

「あれはルールだったのか」

「お前は、あの足を“信頼”と言うのか」


カエサルは言葉に詰まった。

詰まって、拳を握った。

握った拳が、まだ少し痛い。

痛いのに、握り直す。


「……違う」

カエサルは低く言う

「あれは」

「俺が悪かった」

「勝負の外で剣を振った」

「だから殴られた」

「そういうことだ」


父は首を振った。

否定ではない。

疲れた否定だ。


「お前は、まだ札の怖さを全部知らない」

父が言う

「ルールがあるのではない」

「勝者が、ルールを名乗るだけだ」

「今日は家が残っている」

「明日も残るとは限らない」


アウレリアが、卓の上に手を置いた。

手の置き方が、家を落ち着かせる置き方だった。


「準備だけはする」

アウレリアが言う

「出ると決めたわけではない」

「けれど、出られるようにしておく」

「家の備えは、あなたの誇りを否定しない」

「あなたの命を守るためよ」


カエサルは唇を噛んだ。

逃げたくない。

だが、家族が自分を守ろうとしているのも分かる。

分かるから、余計に苦しい。


その夜。

寝床で、カエサルは思い出した。

少女の笑み。

砂の匂い。

父の疲れた目。

母の低い声。


ローマは怖い。

それでも、ローマには笑える人間がいる。

その両方が同じ街にある。

だから自分は、ここにいたい。

守りたい。

逃げるより先に、守れるようになりたい。


その願いはまだ幼い。

幼いからこそ、燃えやすかった。

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