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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第17章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅰ~

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戻る軍靴

朝から空が明るかった。

光がある日は、街の不安も薄く見える。

だから人は油断する。


カエサルは母アウレリアと買い物に出ていた。

荷籠を持つ使用人が後ろにつき、通りの端をきちんと歩く。

アウレリアの歩幅は一定で、視線は商品だけでなく人の流れも見ている。

それは家を守る者の視線だった。


スッラが去ってから、悪夢は不思議なほど減っていた。

眠りの底で追いかけてくる足音がしない。

汗で目が覚める夜がない。

入れ替わるかのように、心が少しだけ空気を吸えるようになっていた。


だからこの朝は、普通だった。

布屋の布を指で撫でる。

香草の束の匂いを確かめる。

パンの焼けた匂いに、腹が反応する。

いつものローマだと、身体が勝手に思ってしまう。


「それは買わない」

アウレリアが言う

「今は飾りより、持つものよ」

「壊れにくいものを選びなさい」


「分かった」

カエサルは頷く。

頷きながら、少しだけ胸を張る。

“見えるもの”を選ぶ会話は、剣の話より簡単だ。


買い物が一通り終わり、通りを戻り始めた頃だった。

街の音が、少しずつ変わった。

商人の声が高くなる。

客の声が短くなる。

歩幅が速くなる。

荷車が道の端へ寄る。

子どもが母の手を強く握る。


カエサルは、ざわめきが広がる前の匂いを感じた。

あの日のアリーナの前と同じ匂いだ。

鉄と革の匂いが、遠くから薄く混じってくる。


誰かが走ってきた。

走り方がもう噂ではない。

知らせの走り方だった。

転びそうになりながらも止まらず、声だけを投げる。


「スッラが軍を連れて戻ってきた!」


通りが一瞬で固まった。

固まったあと、次の瞬間に崩れた。

人が一斉に帰り始める。

帰るというより、逃げる。

逃げるのに秩序がない。

秩序がないのに、同じ方向へ雪崩れる。


「家へ」

アウレリアがすぐに言う

「走らない」

「転ぶと余計に遅れる」

「でも、歩幅は上げる」


母の声は低い。

低い声は、慌てないための杭だ。

杭があると、人は列を作れる。


カエサルは頷いて、母の横を離れない。

胸がざわつく。

けれど、悪夢の時のように凍りつく感じではない。

違う。

今のざわめきは、現実のざわめきだ。

現実は夢より重い。


家に着くころには、街の空気が別物になっていた。

扉が閉まる音が増える。

窓が塞がれる音が増える。

犬の鳴き声が増える。

増えるほど、静けさが薄くなる。


玄関に入った瞬間、カエサルはまず父の靴を探した。

父の外套を探した。

いつもならそこにあるものが、なかった。


使用人が言う。


「ご主人様は職務で外へ」

「戻りはまだ分かりません」


アウレリアの目が一度だけ細くなる。

細くなって、すぐ元に戻る。

恐怖を表に出すと、家の柱が揺れるのを知っている目だ。


「みんな、戸を」

アウレリアが言う

「水を確保して」

「灯りは無駄に使わない」

「子どもたちは奥へ」


カエサルは奥へ行きながら、胸の奥で考えた。

これからまた何か始まるのか。

始まるというより、戻る。

スッラが戻るということは、あの日の足が戻るということだ。

嫌なざわめきが、皮膚の内側で鳴り始める。


場面が変わる。

フォルムに近い場所。

護民官スルピキウスの側。


知らせはすぐに入った。

人の口が恐怖を運ぶ速度は、馬より速い。


スルピキウスは椅子を蹴るように立ち上がった。

顔が赤い。

怒りの赤だ。

彼は民衆の火を扱う者だった。

火が軍靴に踏まれれば、煙になる。

煙になれば、人は咳をして倒れる。


「マリウスだ」

スルピキウスが言う

「今すぐ話す」

「今すぐ、次の手を決める」

「遅れたら終わりだ」


彼は走った。

護衛も追う。

だが護衛の足音が追いついていない。

追いつけないほど、スルピキウスは焦っていた。


マリウスのいるはずの場所へ駆け込む。

扉を押し開ける。

息が切れているのに声が出る。


「マリウス!」

「いるか!」

「スッラが戻った!」

「今こそ…!」


返事がない。

部屋の空気が冷たい。

椅子が整いすぎている。

人がさっきまでいた匂いが薄い。

薄いというより、消されている。


もぬけの殻だった。


スルピキウスは立ち尽くして、次の瞬間に叫んだ。

叫びは怒りであり、恐怖であり、自分自身への罵りでもある。


「ちくしょーだまされた!!」


言葉が壁に跳ね返って、虚しく落ちた。

火を扱う者が、火を失った音だった。


場面が変わる。

そして、数日が一気に縮む。


スッラはローマへ進軍した。

軍靴が石畳を踏む音は、噂ではなく命令になった。

恐れは現実になり、現実は従順を買った。

ローマは“乗っ取られた”と言われる形になった。


マリウスは逃げた。

逃げた先はアフリカだった。

英雄が海を越えて逃げるという事実が、ローマの顔をさらに歪ませた。


そしてスルピキウスは捕らえられた。

捕らえられて、殺された。

言葉で戦う者が、言葉の外側で終わった。

ローマの“言葉の戦争”は、やはり剣と足で締め括られる。


ユリウス家の奥。

戸は閉まり、灯りは低い。

カエサルは薄暗い天井を見上げた。

悪夢が消えたのは、治ったからではない。

悪夢が追いつけない速さで、現実が来たからだ。

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