表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第17章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅰ~

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

211/275

勝者の足、守る者の言葉

砂の味が、口の奥にへばりついていた。

カエサルは息を吸おうとして、吸えない。

背中が砂に叩きつけられた衝撃が、胸の中で遅れて痛みに変わる。

痛みが形になる前に、影が落ちた。

影の主は迷わない。


スッラの足が、また動いた。

蹴りは怒りの蹴りではない。

罰の蹴りでもない。

試す蹴りだった。

相手がどこまで耐えるかを、淡々と確かめる蹴り。


カエサルはうずくまろうとして、腹に蹴りが入る。

息が抜ける。

膝を立てようとして、脇腹に蹴りが入る。

視界が揺れる。

砂が舞う。

舞った砂が頬に貼りつき、涙を吸ってざらつく。


周囲は静かだった。

静かすぎる。

さっきまでの笑い声が嘘みたいに、誰も声を出さない。

大人の喉が、恐怖で固まっている。


ルフスが膝をついたまま、拳を握りしめていた。

腕の筋が浮いている。

立ち上がりたい。

止めに行きたい。

でも、足が動かない。

動いた瞬間に、家の名が折られる気がしている。

彼の葛藤が、砂より硬く見えた。


ティロは倒れたまま、震えていた。

痛みと恐怖で震えているのに、目だけはカエサルから離れない。

離したら、友を見捨てたことになる。

その意地だけで、目が開いている。


スッラの足が、また来る。

カエサルは歯を食いしばった。

泣かない。

叫ばない。

叫んだら負けだと、身体の奥が勝手に決めていた。

だが、骨が軋む音は止められない。


その時。

人の列が割れた。

割れたのに、音がしない。

ただ空気が変わる。

誰かが無理に割ったのではない。

“通らねばならない者”が来たから、勝手に道ができた。


父ガイウス・ユリウスだった。

外套の留め具がきちんと揃っている。

息が上がっているのに、姿勢は崩れていない。

その姿勢だけで、彼がどれほど急いできたかが分かる。


父はスッラの前へ出た。

膝をつかないまま、ただ頭を下げた。

下げ方が深い。

深いが、媚びではない。

家を守るための深さだ。


「蹴るなら私を」

父が言った

「息子は子どもです」

「罪があるなら、私が受けます」


その言葉が落ちたところで、ようやくスッラの足が止まった。

止まったのに、場の緊張は解けない。

止まった足が、いつでも動ける足だと全員が知っているからだ。


スッラは父を見た。

見方が、獲物を見る見方ではなかった。

敵を見る見方でもない。

興味を持った見方だった。


「なに」

スッラが言う

「その者が勝負の外で喧嘩を始めたものでな」

「同じ目にあわせてやろうと思って」


貴族の子どもたちは笑うことができなかった。

さっきの軽い笑いは、どこにも残っていない。

笑えば次は自分だと、身体が理解している。


父は頭を上げない。

上げないまま言葉を選ぶ。

選び方が、フォルムの石段の上に似ていた。


「確かに息子は悪いことをしたかもしれません」

父が言う

「ですが、あくまで友を守るために動きました」

「先に卑怯があり、先に侮りがあり、先に痛めつけがありました」

「それを見て、子どもが熱くなったのです」


スッラが小さく息を吐いた。

笑っていない。

怒ってもいない。

ただ、会話の続きを欲しがっているように見えた。


「友を守るために、なんだ」

スッラが言う

「やられたものは理由を求めぬぞ」

「痛みは、理由を聞いてから痛むわけではない」

「言葉で飾っても、痛みは消えぬ」


その瞬間、カエサルは砂の上で理解した。

スッラはただ暴力をふるうだけの者ではない。

会話を求めている。

会話で相手を測り、測った結果を足で示す。

言葉と剣と棒と足を、同じ棚に置いている。


父は静かに答えた。


「承知しています」

父が言う

「だからこそ、理由を言います」

「理由を言うのは言い訳ではなく、次に同じことを起こさぬための道です」

「殴り返しは連鎖します」

「連鎖の中で残るのは、恨みだけです」


スッラの目が細くなった。

細くなった目は、笑いに近いのに笑いではない。


「貴様のような一家は……」

スッラが言いかけた。


そこで言葉を止めた。

止めたまま、背を向けた。

背中が静かに遠ざかる。

周囲が勝手に道を作る。

さっきと同じだ。

同じだから、恐ろしい。


父は頭を垂れたまま、その背中を見送った。

見送り方が、負けの見送りではない。

生き残りの見送りだ。


スッラの一行が去った後、空気が少しだけ戻った。

戻った空気は、冷たい空気だった。


父はすぐにカエサルのもとへ来た。

膝をつき、息子の肩に手を置く。

手の温度が、初めて“家”の温度だった。


「立てるか」

父が言う

「立てなくてもいい」

「息をしろ」

「目を開けろ」


カエサルは頷こうとして、痛みで顔が歪んだ。

それでも歯を噛んだ。


父はティロのところにも行き、同じように確認した。

ティロは言葉より先に頭を下げようとした。

父はそれを止めた。


「今は礼ではない」

父が言う

「今は命だ」


二人を支え、父は急いで帰路についた。

道中の景色はぼやけていた。

石畳の硬さだけが、足の裏から上がってくる。

ローマの街が、いつもより怖い。

怖いのに、いつも通りに人が歩いている。

それが一番怖い。


家に戻ると、母アウレリアが待っていた。

扉が開いた瞬間、母の顔から言葉が消えた。

消えた言葉の代わりに、目が全てを理解した。


ボロボロになった二人を見て、姉マイオルが息を呑む。

妹ミノルは泣きそうになって、声が出ない。

使用人たちが水と布と薬草を持って走る。


アウレリアはすぐに指示を出した。

声は低い。

低いが乱れない。

乱れない声が、家を立て直す。


「水」

アウレリアが言う

「布を裂いて」

「火を弱くして」

「この子たちは冷やさない」


治療が始まる。

傷口を洗う。

砂を落とす。

布を当てる。

痛みが遅れて押し寄せ、カエサルは喉の奥で呻いた。

呻きは声にならない。

声にしたら、さっきの札が完成してしまう気がしていた。


父が深く息を吐いた。

その息は怒りと安堵が混じっている。


「家を出るなと言われたはずだろ」

父が言う

「なぜ出た」

「なぜ今日だった」


カエサルは俯いた。

俯くと痛みが増す。

増すのに俯く。

俯くしかない。


「今日は試合だった」

カエサルが言う

「勝たないといけないと思った」

「勝たないと、ティロがずっと笑われる」

「俺も、俺の名も、ずっと同じだと思った」


ティロが身を起こしかけて、痛みに顔を歪めながら言った。

言葉は必死だった。


「カエサルは悪くないです」

ティロが言う

「僕のためを思って抜け出したんです」

「僕がいなければ、こんなことには」


父の目がティロに向く。

叱る目ではない。

だが甘やかす目でもない。

責任を教える目だ。


「本来は、お前が止めなければいけない」

父が言う

「お前は賢いのだから」

「賢い者が、賢さを自分の中だけにしまってどうする」

「賢い者の役目は、火がついた者を守ることでもある」


ティロは唇を噛んで頷いた。

悔しさと感謝が同じ場所に詰まっている。


父は視線を落とし、言葉を続ける。

それは叱責というより、説明だった。

説明は、未来のための武器だ。


「今、情勢は荒れている」

父が言う

「あのスッラは、マリウスと対抗している」

「敵味方の線が、紙の上でも街の中でも揺れている」

「ここでいちゃもんをつけられて、マリウスの面を汚したらどうなる」

「ユリウスの名が、どちらの札にもされうる」

「札にされれば、剣は後から付いてくる」


アウレリアが静かに言った。

呆れと恐怖が、同じ声に入っている。


「子どもは、札を甘く見る」

アウレリアが言う

「札は紙より軽いのに、人の首より重いのに」


父はもう一度息を吐いた。

今度は少し長い。

長い息は、安堵の形だ。


「……それでも」

父が言う

「大けがには至っていない」

「骨が折れていない」

「生きて帰ってきた」

「それだけで、今日はまだ勝っている」


カエサルはその言葉を聞いて、悔しさで胸が熱くなった。

勝っている。

そんな勝ち方は嫌だ。

でも、父の声には現実がある。

現実は、願いより強い。


治療の布が巻かれ、部屋の空気が少し落ち着く。

落ち着いた分だけ、今日見たスッラの目が鮮明になる。

柔和な笑み。

次の瞬間の蹴り。

言葉が息になり、息が刃になる瞬間。


カエサルは俯いたまま、心の奥で誓いの形を探した。

剣だけでは足りない。

言葉だけでも足りない。

札を剥がす力が要る。

札を貼らせない形が要る。


その答えはまだ見えない。

だが、見えないままでも、今日だけは一つ分かった。

ローマでは、勝者が正しいのではない。

勝者が、正しさを作る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ