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新・ガリア戦記  作者: 維岡 真
第17章 カエサルの過去 ~幼少期Ⅰ~

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降参という刃

それが分かっただけで、カエサルの胸の奥は少しだけほどけた。

だが次の瞬間、そのほどけた場所に、熱いものが流れ込んでくる。

怒りだ。

遅れてくる怒りは、いつも強い。


ルフスがティロの肩を支えていた。

ルフスの指は震えていない。

震えていないからこそ、怒りが深いのが分かる。

貴族の子どもたちは、勝った側の笑みを崩していない。

笑みの奥に、さっき転がされた恥を隠したまま。


「次だ」

誰かが言う。

「最後だ」


カエサルは砂へ出た。

足が砂を踏む音が、やけに大きく聞こえる。

木剣の柄は汗で滑るはずなのに、今日は手のひらが乾いていた。

乾きすぎて、逆に痛い。


対戦相手の少年は不敵に笑っていた。

その笑みは余裕ではない。

侮りだ。

相手は勝つつもりというより、勝負そのものを汚すつもりで立っている。


カエサルは思った。

裏があろうがなかろうが、どうでもいい。

汚いなら汚いでいい。

正しい勝負の形なんて、こいつらが守るわけがない。

なら自分は、形ではなく力で叩き潰すだけだ。


合図が来た。

空気が一段硬くなる。

足の裏が砂に沈む。

その沈みが、踏み込みの合図になる。


その瞬間だった。

相手が両手を上げた。

剣を捨てるでもなく、ただ、軽く上げた。

笑みを浮かべたまま。


「降参」


たったそれだけ。

次の瞬間、周囲が笑い出した。

笑いが波になって、砂の上を転がる。

勝負が始まる前に終わったことが、最高の冗談だと言わんばかりに。


カエサルは動けなかった。

踏み込みの途中で止まると、体の中の熱が行き場を失う。

行き場を失った熱が、頭の奥を白くする。


相手の少年が、にやにやしながら言う。


「初めからお前なんかとまともに勝負するわけないだろ」

「ユリウス様は怖いからな」

「勝負したことにしてやったんだ」


笑いがまた起きた。

笑いの中に、ティロの倒れた姿が混じっている。

混じっているのに、誰も気にしない。

それがカエサルには耐えられなかった。


「……てめーら」

カエサルの声が低くなる。

低い声は、もう言葉ではなく刃だ。


「てめーらただじゃおかねぇ」


次の瞬間、カエサルは木剣を振るっていた。

狙いは勝負の相手ではない。

笑っている顔だ。

札を貼って笑う口だ。


貴族の子どもたちが悲鳴を上げて散る。

砂が跳ねる。

逃げ足は速い。

速いから余計に腹が立つ。


大人たちが慌てて割って入る。

腕を掴まれる。

肩を押さえられる。

木剣の先が空を切るたび、誰かの息が詰まる。


「やめろ」

「子どもの遊びだ」

「勝負は終わった」


終わっているのは勝負じゃない。

終わっているのは誠実さだ。

カエサルの中では、そうなっていた。


「離せ」

カエサルが叫ぶ

「それでもお前たちはローマの人間か」

「仲間を痛めつけて笑って」

「降参で逃げて」

「名前で殺して、それで終わりか」


喚く声は、だんだん自分でも制御できなくなる。

怒りは火だ。

火は燃える場所を選べない。


その時。

人の波が、妙な形で割れた。

棒でも剣でもなく、ただ“気配”で割れた。

空気が一気に冷える。

笑い声が止まる。

砂の音だけが残る。


「どうした」

低い声が割って入る。

叱責ではない。

確認でもない。

もっと上から落ちてくる声だ。


カエサルは反射で言った。


「うるせぇ」


そしてその人物を見た瞬間、呼吸が止まりそうになった。

スッラだった。

昼に見た、道が勝手に開く男。

静かで、何食わぬ顔で行進する男。

禍々しい殺気が、笑い声を消してしまう男。


周囲の大人たちが膝をついた。

貴族の子どもたちも、恐る恐る膝を折る。

ルフスでさえ、歯を噛みしめたまま膝をついた。

ティロも、震えながら額を下げる。


「こら、お前も」

大人の一人がカエサルに囁く。

「膝をつけ」


カエサルだけが、立ち尽くしていた。

信じられないというより、体が命令を聞かなかった。

目の前の現実が重すぎて、膝が折れる前に固まっている。


スッラは、周囲を見回した。

見回すだけで、全員が息を止める。

そして、わずかに肩をすくめた。


「よい」

スッラが言う

「ただアレーナに見学に来ただけじゃ」


その言い方が、余計に怖かった。

見学で人が黙る。

見学で膝が折れる。

その事実が、都市の形を変えてしまう。


スッラはカエサルを見た。

真正面から。

逃げ道のない視線で。


カエサルは動けない。

動けないまま、見返してしまう。

見返したことが、すでに無礼だと分かっているのに。


「カエサル」

ルフスが必死に呼んだ

「カエサル、膝をつけ」


その声で、カエサルの体がやっと戻ってきた。

遅れて恐怖が来る。

遅れて常識が来る。

カエサルはぎこちなく膝をついた。


スッラが小さく繰り返した。


「カエサル」

「そうか」

「貴様が……」


言葉が途中で止まった。

止めたのが怖い。

続きが何であれ、勝手に想像してしまう。


スッラは穏やかな声に戻した。


「ところで何の騒ぎだったんじゃ」


カエサルは喉が乾いていた。

だが言わないと、何か別の札を貼られる気がした。


「勝負です」

カエサルが言う

「勝負なのに、あいつらがすぐ降参しやがった」

「こっちは仲間を痛めつけられたのに」

「だから俺は、あいつらを倒そうとした」


スッラが首を少しだけ傾けた。

ただそれだけで、尋問になる。


「本当か」


周りの者たちが、罰が悪そうに頷いた。

頷き方が揃っていない。

揃っていない頷きは、真実の形に近い。


スッラはふう、と息を吐いた。

残念そうな顔を作った。

作った、というのが分かる程度には整った残念さだった。


「そうか」

スッラが言う

「それは残念じゃったのう」


そして、柔和な笑みをカエサルに向けた。

柔和な笑みは救いに見える。

救いに見えるから、人は油断する。


カエサルが、ほんの一瞬ほっとした。

その瞬間だった。


衝撃が来た。

視界が跳ねる。

腹の中の空気が全部抜ける。

次の瞬間、体が宙を舞っていた。


スッラの足が、カエサルを蹴り飛ばしたのだった。


砂が背中に叩きつけられる。

痛みより先に、息ができない。

周囲が凍りついているのが、音で分かる。

誰も叫ばない。

誰も動かない。

それが、剣より速い支配だ。


カエサルの胸の中で、何かが折れたわけではなかった。

ただ並び替えられた。

剣の勝負。

言葉の勝負。

名前の勝負。

そして、勝者が笑って殴るという現実。


砂の味がした。

カエサルは歯を食いしばった。

泣かない。

ここで泣いたら、今日の札が完成する。

そう本能が叫んでいた。

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