ふたつの英雄、ひとつのローマ
ローマは、同盟者戦役が「終わった」と言い始めても、まだ戦の姿勢を解けなかった。
剣が収まっても、腕の筋肉は収まらない。
軍から戻った者の目は、すぐには町の目に戻らない。
そして何より、街の中に“次の敵”ができてしまった。
敵は外ではない。
名前だ。
英雄の名だ。
マリウス。
スッラ。
どちらもローマを救ったと言われる。
どちらもローマを壊すとも囁かれる。
救った手と壊す手が同じであることを、ローマはもう知ってしまっていた。
場面は、マリウスの側へ移る。
古い家の一室。
豪奢ではない。
だが簡素でもない。
壁には戦利品ではなく、地図と帳簿がある。
机の上の蝋板には数字が並び、誰の名でもない“人の数”が刻まれている。
マリウスは椅子に座っていた。
年老いた身体は鎧の形を覚えている。
背は少し丸くなったのに、目だけはまだ勝っている。
勝っている目は、敵を見つける目ではなく、味方の数を数える目だ。
側近が言う。
「市民は、あなたを望んでいます」
「資産を持っている小市民を兵役から解放したことを、彼らは忘れていません」
「息子が徴募で引き裂かれない」
「家の畑が荒れない」
それだけで、あなたは彼らの生活を守った」
別の側近が続ける。
「その代わり、失業者には兵士という職業を与えた」
「仕事がない者に、飯と給金を与えた」
「彼らはあなたを“生かした人”と呼びます」
「兵があなたを慕うのは、戦の強さだけではありません」
マリウスは短く息を吐いた。
誇る息ではない。
思い出す息だ。
「慕いは重い」
マリウスが言う。
「慕いは腹を満たすが、国を割る」
「慕いが行き過ぎれば、ローマではなく、マリウスに従う軍ができる」
その言葉に、部屋の空気が少し沈む。
沈む空気の中へ、護民官スルピキウスが入ってきた。
足取りが軽い。
軽いのに、目が鋭い。
人民の代表の目だ。
同時に、火を扱う者の目でもある。
「悩んでいる顔だな、マリウス」
スルピキウスが言う。
「悩むのは結構だ」
「だが悩んでいる間にも、スッラは道を作る」
側近が警戒の目を向ける。
スルピキウスは人気がある。
人気は味方にも敵にもなる。
人気がある者は、誰よりも早く“売れる”。
マリウスは黙って彼を見た。
黙っている間に、相手の呼吸が見える。
戦場の癖が、政治の場にも残っている。
スルピキウスが言う。
「ミトリダテスだ」
「東方で王が暴れている」
「対ミトリダテス戦の総指令官を、今度は市民集会で選ばせろ」
「元老院の机の上だけで決めるから、ローマは腐る」
「人民が選べば、人民は腹を決める」
側近が噛みつく。
「そんなことをしたら、軍の指揮権が投票の玩具になる」
「将軍が、喝采の数で決まる国になる」
スルピキウスは肩をすくめた。
軽い仕草だが、言葉は軽くない。
「すでになっている」
スルピキウスが言う。
「違いは、誰の喝采で決まるかだけだ」
「貴族の喝采か、人民の喝采か」
マリウスが口を開いた。
「スッラを狙っているのか」
マリウスが言う。
「お前の言葉は、いつも敵を作るのが早い」
「敵を作るのが早い者は、味方を失うのも早い」
スルピキウスは笑った。
笑いは短い。
短い笑いは、覚悟の笑いだ。
「敵がいない改革は、改革じゃない」
スルピキウスが言う。
「改革ごっこだ」
「マリウス」
「あなたは人民に職を与えた」
「それを守るなら、人民に選ばれろ」
「もう一度、あなたの名が必要なんだ」
側近が静かに言う。
「あなたの名は、兵を呼びます」
「呼ばれた兵は、喜んで集まるでしょう」
「だがそれは、ローマが兵を集めるのではなく、マリウスが兵を集める形になる」
マリウスの眉がわずかに動いた。
痛いところを突かれた時の動きだ。
「……分かっている」
マリウスが言う。
「だからこそ、容易く頷けない」
「私が欲しいのは栄光ではない」
「ローマが割れないことだ」
スルピキウスが一歩近づいた。
近づく歩幅が、言葉を強くする。
「割れる」
スルピキウスが言う。
「割れるのを止めるには、割れる前に主導権を取るしかない」
「スッラは軍を持っている」
「そして軍は、持っている者に従う」
「あなたは人民を持っている」
「人民を持っている者は、票を持つ」
「票で指揮権を奪え」
「剣を抜かせる前に、法で奪え」
法。
その言葉が、部屋の空気をまた少し硬くした。
法は盾にもなる。
だが法は、戦争の合図にもなる。
場面が変わる。
スッラの側。
スッラは、まだ最盛期ではない。
だが人気は根強い。
兵は彼を知っている。
貴族は彼を頼りにする。
そして市民の一部は、彼を“秩序”だと信じている。
秩序という言葉は、怖い時に甘い。
スッラは静かな部屋にいた。
装飾は少ない。
少ないのに、空気が従っている。
座っているだけで、周囲が道を作る男だ。
部下が報告した。
「マリウスが動いています」
「スルピキウスが平民集会を煽っています」
「対ミトリダテス戦の総指令官を、平民集会で決めると言っています」
スッラは目を細めた。
怒りではない。
面白がっているわけでもない。
“読める”という目だ。
「平民集会か」
スッラが言う。
「一部の有権者のみで票を集めて覆そうと思っているのか」
部下が慎重に言う。
「ですが、マリウスの名は強い」
「あなたの元上司です」
「民衆にとっては英雄です」
スッラは一拍置いた。
その一拍が、相手の名を舌の上で転がしている間だった。
「英雄は、扱いにくい」
スッラが言う。
「英雄は国を救う」
「同時に、英雄は国の形を変える」
「そして国の形が変われば、元の貴族は死ぬ」
「死ぬのは首だけではない」
「名も死ぬ」
スッラはふと、今日のアリーナを思い出した。
ユリウスの少年。
膝をつけなかった目。
そして、蹴りを受けても泣かなかった目。
「……今日、躾をした少年がいたな」
スッラが言う。
「あれも、マリウスと同じ目をしていた」
部下が息を呑む。
スッラが少年に興味を持つ。
それは祝福ではない。
札が貼られる前触れだ。
「市民集会で選ばれることになるだろう」
スッラが淡々と言う。
「総指令官の座が」
「奴らは、私からそれを奪うつもりだ」
部下が言う。
「奪わせますか」
スッラは笑わなかった。
笑わないことが答えだった。
「かかってこい」
スッラが言う。
声は小さい。
小さいのに、刃のように部屋を切る。
「私は、剣で取ったものを、票で奪われるつもりはない」
「奪うなら奪え」
「その代わり、奪った者には責任を取らせる」
場面が再び、マリウスの側へ戻る。
スルピキウスはマリウスの沈黙を待っている。
待てる男は、火を大きくできる。
マリウスがゆっくり言った。
「かかってこい、ということか」
「スッラはそう言っているのだろうな」
スルピキウスが笑う。
笑いは燃料だ。
「なら、こちらも同じだ」
スルピキウスが言う。
「かかってこい」
「票で、法で、名で」
「剣を抜く前に勝てるなら、それが一番安い勝ちだ」
マリウスは窓の外を見た。
ローマの空は青い。
青い空の下で、人は札を作り、札で人を殺す。
剣が抜かれる前に、もう戦争は始まっている。
「……ローマは忙しいな」
マリウスがぽつりと言った。
その言葉に、側近もスルピキウスも笑わなかった。
忙しいのではない。
危ういのだと全員が知っていた。




