EP 7
夜想曲と血塗られた過去の告白
嵐のような一日が終わり、夜の帳がポポロ村をすっぽりと包み込んでいた。
小料理屋『鬼龍』は夜のBAR営業を終え、深い静寂に沈んでいる。店内に静かに流れているのは、魔導蓄音機から流れる哀愁を帯びた美しいピアノの旋律――ショパンの『夜想曲第二十番』だった。
眠りにつこうと二階の自室に戻った私だったが、昼間の騎士団襲撃の光景や、龍魔呂さんの圧倒的な力が脳裏に焼き付いて離れず、どうしても寝付くことができなかった。
喉の渇きを覚えて一階の厨房へお水を飲みに降りようとした時、階段の途中でふと足が止まった。
――プァー……ァァ……。
ピアノの旋律に混じって、静かで、どこかひどく切ない音色が聞こえてきたのだ。
そっと店舗の方を覗き込むと、月明かりだけが差し込む薄暗い店内で、龍魔呂さんがカウンターの隅に腰掛けていた。
彼の手には小さな銀色の楽器――ハーモニカが握られている。
彼が奏でていたのは『ロンドンデリーの歌』。哀愁に満ちたその音色は、昼間の強くて恐ろしい彼からは想像もつかないほど、深く、孤独な響きを持っていた。
(龍魔呂、さん……)
月明かりに照らされた彼の横顔は、彫刻のように美しい。けれど、その瞳には深い闇のような悲哀が沈んでいた。
私が息を呑んだ気配に気づいたのか、ピタリとハーモニカの音が止んだ。
「……眠れねぇのか」
「あ……ごめんなさい。お邪魔、でしたか」
「いや。……こっちに来い」
彼に促され、私はゆっくりと階段を降りて、彼の隣の丸椅子にちょこんと腰掛けた。
龍魔呂さんはハーモニカをカウンターに置き、自分の分厚く、傷だらけの大きな両手を見つめた。
「昼間は、嫌なもんを見せちまったな。怖かっただろ」
「いいえ! 少しも怖くありませんでした。だって、龍魔呂さんは一滴も血を流さずに、私を守ってくれたから……」
「……」
私の言葉に、彼は短く自嘲するような笑いを漏らした。
そして、ポケットから真鍮のライターを取り出し、カチッ、と音を立ててマルボロに火をつけた。紫煙が月明かりの中にゆらゆらと立ち昇る。
「……お前は、今日俺が『一滴の血も流さなかった』と言ったな。それは違う」
彼は深く煙を吸い込み、吐き出しながら、ポツリと語り始めた。
「俺のこの手は……とっくの昔に、数え切れねぇほどの血で真っ赤に染まっちまってるんだよ」
それは、彼が今まで誰にも見せなかった、心の奥底の扉を開く音だった。
私は口を挟まず、彼の言葉をじっと待った。
「俺は、物心ついた時からスラムのゴミ溜めで育った。母親は娼婦で、俺が七つの時に病気で死んだ。俺には、ユウっていう五つ下の弟がいてな。そいつを生かすためなら、俺は泥水でも啜ったし、なんだってやった」
「……弟さんが、いらっしゃったんですね」
「ああ。だが……俺が十の時、権力者に目をつけられて、俺とユウは引き離された。ユウを人質に取られた俺は、地下格闘場の『奴隷戦士』に叩き落とされた」
地下格闘場の奴隷戦士。
それは、貴族や富豪たちが娯楽として見物する、死ぬまで戦わされる殺し合いの檻。
たった十歳の少年が、弟の命を守るためだけに、大人たちと血みどろの殺し合いを強いられていたのだ。想像を絶する地獄に、私の胸がギュッと締め付けられた。
「俺は、十五になるまで無敗だった。俺が勝てばユウが生かされる。だから、どんな相手でも殺した。……だが、俺が強くなりすぎたせいで、賭けが成立しなくなったんだろうな。ある日、対戦相手として檻に放り込まれたのは……ユウと同じくらいの年の、小さな少年兵だった」
龍魔呂さんの声が、微かに震えた。
「俺は……剣を振れなかった。その隙を突かれて刺され、俺は負けた。同時に、人質としての価値がなくなったユウも、病気で見殺しにされた。……俺たちは二つ並んで、ゴミ捨て場に放り捨てられた」
「そんな……ひどい……っ」
「そこで、俺の中の『人間』が完全に壊れた」
龍魔呂さんは、手元の灰皿にタバコを強く押し付けた。
「俺はゴミ捨て場から這い上がり、その日のうちに格闘場のオーナーを殺した。それだけじゃねぇ。俺たち殺し合う奴隷を見て、酒を飲んで笑ってた観客どもを……一人残らず、皆殺しにした」
「――っ」
「それからだ。俺が『死を呼ぶ四番(DEATH4)』なんて、ふざけた名前で恐れられるようになったのはな。悪党を殺し、邪魔する奴を殺し、血の海を歩き続けてきた」
彼は、自らの大きな両手を私の前に突き出した。
何千、何万という命を奪ってきた、凄惨な過去を持つ処刑人の手。
「これが、俺の正体だ。リリアナ。お前みたいに綺麗で、優しい光を持つ女が、そばに居ていい男じゃねぇ。俺の居場所は、本当は地獄なんだよ」
突き放すような言葉。
彼は、私に恐怖し、自分から離れていくことを望んでいるようだった。
自分が汚れた存在だと信じ込み、私の純粋さに触れることを恐れている。あんなにも強くて無敵に見えた彼の、それが隠し続けてきた最も脆い『傷』だった。
――だけど。
私は、ちっとも怖くなんかなかった。
「……龍魔呂さん」
私は丸椅子から降りると、彼の手の前に立ち、両手を伸ばした。
そして、彼が自らを「血に染まっている」と忌み嫌うその大きな両手を、私の小さな手でしっかりと、包み込んだ。
「なっ……おい、リリアナ……」
「この手は……私が雨の中で死にそうになっていた時、私を抱き上げて、温かいベッドに寝かせてくれました」
驚いて目を見開く彼の手のひらを、私は自分の頬へとそっと引き寄せた。
「この手は……世界で一番美味しい、肉椎茸の雑炊を作ってくれました。私に、生きる気力をくれました」
「やめろ……俺は……」
「この手は、私の頭を何度も優しく撫でてくれました。今日だって、私が怖い思いをしないように……ご自分の手を汚してでも、血を一滴も流さずに、私を守り抜いてくれました」
ポロリと、私の目から涙がこぼれ落ち、彼の手の甲を濡らした。
「龍魔呂さんが過去にどんな罪を犯したとしても。地獄へ行くというのなら……私も、一緒に地獄へ行きます。だって、私にとってこの手は……世界で一番温かくて、優しい手だから」
私がそう言うと、龍魔呂さんは息を呑み、言葉を失ったように私を見つめた。
鋭い三白眼が大きく見開かれ、その奥で、長年彼を縛り付けていた真っ暗な氷が、音を立てて崩れ落ち、溶けていくのがわかった。
「お前は……本当に、馬鹿な女だ……」
震える掠れた声。
次の瞬間、私の身体は、強い力でグンッと前へと引き寄せられた。
「きゃっ……」
気がつけば、私は龍魔呂さんの太い腕の中にすっぽりと閉じ込められていた。
まるで、私という存在を自分の中に溶かし込んでしまおうとするかのような、強く、けれど壊れ物を扱うようなひどく優しい抱擁。
「龍魔呂、さん……?」
「……少しだけ、このままでいさせてくれ」
私の華奢な肩に、彼が顔を埋める。
彼の大きな身体が、微かに震えていた。私の首筋に、温かくて濡れたものが触れる。
それは、彼が弟を失ってから今日まで、一度も流すことのなかった『人間としての涙』だったのかもしれない。
私はそっと背中に腕を回し、不器用で、誰よりも優しいこの大きな背中をトントンと撫でた。
「大丈夫ですよ。私は、どこにも行きません。ずっと、あなたのそばにいます」
ショパンの夜想曲が静かに終わろうとしている。
血塗られた過去の罪悪感と孤独の中で生きてきた彼。
誰からも愛されず、無能と捨てられた私。
互いに欠落していた魂のピースが、この夜、ポポロ村の小さな店の中で、完全に一つに重なり合った。
私たちは、互いの熱と鼓動を感じながら、夜が明けるまで静かに抱きしめ合っていた。
読んでいただきありがとうございます。
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