EP 6
鬼神流の蹂躙、一滴の血も流させない愛
圧倒的な『死』の気配。
ポポロ村の小料理屋『鬼龍』の店内は、龍魔呂さんの身体から溢れ出す赤黒い闘気によって、完全に別の空間へと変貌していた。
「ひっ……うぅ……っ!」
三十名以上いたエスター王国の精鋭騎士たち。彼らは今や、狩られる前の哀れな草食動物のように身を寄せ合い、ガタガタと震えている。
だが、腰を抜かしていた騎士隊長が、狂ったように叫んだ。
「き、貴様ら何を怯えているッ! たかが一介の飯屋の親父だぞ! 相手は素手だ! 我々は三十名いるのだ、一斉にかかればどうという――」
騎士隊長の言葉に、ハッと我に返った若い騎士たちが一斉に白銀の剣を抜き放った。
ギラリと鈍く光る無数の刃が、私と龍魔呂さんに向けられる。
「や、やめて……!」
私が悲鳴を上げそうになった瞬間。
「……五月蝿ぇな」
龍魔呂さんが紫煙をふっと吐き出した。
その直後――彼の姿が、ブレた。
物理的な距離を無視したかのような、神速の移動。琉球古武術の歩法『縮地』の極致。
「なっ――!?」
騎士たちが剣を振り下ろすよりも早く、龍魔呂さんは先頭の五人の懐へと同時に潜り込んでいた。
だが、彼は拳を握らない。
流れるような美しい円を描くように、両手をふわりと宙に舞わせた。陳式太極拳の『化勁』――相手の力を完全に無効化し、受け流す技術。
騎士たちが渾身の力で振り下ろしたはずの剣が、龍魔呂さんの手の甲に触れた瞬間、まるで綿雪のように力を失い、明後日の方向へと弾かれていく。
「な、なんだと!?」
「剣が……俺の剣がッ!」
驚愕に目を見張る騎士たちの胸元や首筋、手首といった急所へ、龍魔呂さんの指先がそっと触れた。
――【鬼神流 絶花・零】
ドンッ!! という鈍い衝撃音が、騎士たちの体『内』から響いた。
外傷は、一切ない。皮膚一枚、服の布切れ一枚破れていない。
しかし、龍魔呂さんの指先から相手の体内へと直接叩き込まれた赤黒い闘気が、彼らの経絡と神経網を一瞬にして物理的にショートさせたのだ。
「カッ……ハ……ッ」
「あ、が……っ」
白目を剥き、声にならない悲鳴を上げて、五人の騎士が糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
血は一滴も流れていない。ただ、完全に意識を断ち切られ、白目を剥いて痙攣しているだけだ。
「ば、馬鹿な!? 何をしたッ! 魔法か!?」
「次だ」
騎士隊長の悲鳴を置き去りにし、龍魔呂さんは残りの騎士たちの中へと滑り込んでいく。
それは、もはや戦闘と呼べるものではなかった。
美しい、死の舞踏。
詠春拳の無駄のない動きで四方八方からの剣撃をことごとく指先で弾き返し、すれ違いざまに相手の肩や背中にそっと手のひらを当てるだけ。
それだけで、屈強な大の男たちが、次々と泡を吹いて床に崩れ落ちていく。
ドサッ、ドサササッ!
わずか十数秒。
私が瞬きを数回する間に、店内に押し入ってきた三十名以上の精鋭騎士たちは、騎士隊長一人を残して全員が床に転がり、完全なる沈黙に包まれていた。
「あ……あ……ひぃぃぃっ!」
騎士隊長は、信じられない光景を前に、剣を取り落として後退った。
一滴の血も流さず。ただ撫でるように触れただけで、王国最強の騎士団が全滅したのだ。
彼の目には、龍魔呂さんが人間の皮を被った絶対的な魔物に見えたに違いない。
「……さて」
龍魔呂さんは、最後に残った騎士隊長へとゆっくり歩み寄った。
カツン、カツンと響くエンジニアブーツの足音が、死神の足音のように店内に響く。
彼は騎士隊長の前に立つと、見下ろすようにして冷酷な瞳を細めた。
「お前らみたいなゴミをミンチにするのは簡単だ。だが……俺の大事な店と、俺の女の前を、汚え血で汚したくなかったんでな。手加減してやった」
龍魔呂さんの言葉に、私はハッとして自分の手を見た。
戦いが終わったというのに、店の中には血の匂いが一切しない。
彼は、私が怖い思いをしないように。残酷な光景を見ないように。わざわざ威力を抑え、外傷を与えない究極の技術だけで、彼らを制圧してくれたのだ。
ただの荒くれ者ではない。その圧倒的な力の裏にある、私への底知れない気遣いに、胸の奥がギュンッと熱く締め付けられた。
「ひっ……ゆ、許してくれぇぇッ!」
「一つだけ、アルベルトって馬鹿なガキに伝言を頼む」
龍魔呂さんは、震える騎士隊長の顔スレスレまで顔を近づけ、マルボロの煙をフーッと顔に吹きかけた。
「リリアナは、もう俺の女だ。二度とこの村に近づくか。……それとも、俺が王都へ出向いて、城ごと地図から消し去ってやるか。選べ、とな」
その言葉に含まれた重圧は、言葉通りの『事実』として騎士隊長の心を完全にへし折った。
「わ、わかった! 伝えるッ! だから命だけはッ!」
「なら、一分以内に俺の視界から消えろ。そのゴミどもも連れてな」
騎士隊長は泣き喚きながら、気絶した部下たちを魔法の袋に無理やり放り込み、這うようにして店から逃げ出していった。
遠ざかっていく蹄の音。
彼らが完全にポポロ村から去ったのを確認すると、龍魔呂さんはフゥと息を吐き、全身を包んでいた赤黒い闘気をスッと引っ込めた。
恐ろしい死神から、いつもの不器用で大柄なマスターの姿へと戻る。
「……チッ。床が汚れちまったな」
そうぼやきながら、彼はタバコを灰皿で揉み消し、私の方へと振り返った。
その顔を見た瞬間、私の中に張り詰めていた緊張の糸が、プツンと切れた。
「龍魔呂さん……っ!」
気づけば、私は彼に向かって走り出していた。
そして、その分厚い胸に、思い切り飛び込んでいた。
ドンッ、とぶつかっても、彼は岩のようにビクともしない。それどころか、私の小さな身体を、その大きな両腕でしっかりと、大切に受け止めてくれた。
「おいおい、そんなに泣くな。……怖がらせたか?」
彼の低くて優しい声が、頭上から降ってくる。
少しだけ血の匂いがする戦闘の後なのに、彼の身体からは、美味しそうな出汁の匂いと、タバコの香りがした。それが、どうしようもなく私を安心させる。
「こ、怖くなんて……ないです。龍魔呂さんが、守ってくれたから……一滴も、血を流さずに、私を守ってくれたから……っ」
彼のレザージャケットの胸元をギュッと握りしめながら、私はボロボロと涙をこぼした。
王城では、誰一人として私を庇ってくれなかった。
私を「無能」だと笑い、泥水の中に突き飛ばした。
けれど、この人は違う。
国を敵に回してでも、私を「俺の女だ」と言って、絶対的な力で守り抜いてくれたのだ。
「……馬鹿野郎」
龍魔呂さんは、不器用な手つきで私の背中をトントンと優しく叩き、もう片方の手で私の頭をポンポンと撫でた。
「お前はただ、俺のうしろで笑ってればいいんだ。あんな薄汚ねぇ連中に、お前の綺麗な瞳を曇らされてたまるかよ」
無自覚な、甘すぎる言葉。
彼の胸の鼓動が、私の耳にトクトクと伝わってくる。私自身の心臓の音も、もう彼に聞こえてしまっているかもしれない。
私は彼を見上げ、涙で濡れた顔のまま、ふにゃりと笑った。
「龍魔呂さん……私、あなたに出会えて、本当に良かったです」
私のその言葉に、龍魔呂さんはわずかに目を見開き、そして……照れ隠しのように顔を背け、「……仕込みの続きをするぞ」とぶっきらぼうに言った。
けれど、彼が私を抱きしめる腕の力は、少しだけ強くなった気がした。
圧倒的な武力と、私にだけ向けられる過保護なまでの優しさ。
この人がいれば、私はもう何も怖くない。
私は彼の腕の中で、これまで生きてきた中で一番の、絶対的な安心感と甘い感情に浸っていた。
読んでいただきありがとうございます。
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