EP 5
傲慢な使者と、マルボロの煙
買い出しから一夜が明け、ポポロ村にはいつもの穏やかで優しい朝が訪れていた。
朝靄の深まる中、私は店の裏手にある畑で、みずみずしい葉を広げる『陽薬草』や、まん丸に実った『ハニーかぼちゃ』の収穫を終えたところだった。
「リリアナ、採れたか?」
「はい! 今日の陽薬草も、すごく生命力に満ちています。これで淹れるお茶は、きっと傷も疲労も一瞬で吹き飛んじゃいますね」
勝手口から顔を出した龍魔呂さんに、私は籠いっぱいの採れたて野菜を見せて微笑んだ。
彼は満足そうに一つ頷くと、大きな手で私の頭をポンと撫でてくれた。昨日の買い出しでの出来事――あの「助手席に乗せたのはお前が初めてだ」という言葉が頭をよぎり、私の胸はそれだけでキュンと甘く疼いてしまう。
朝食は、私が育てた新鮮なハニーかぼちゃを贅沢に使ったポタージュスープと、サクサクに焼かれた米麦草のパン。
温かいスープが胃に染み渡るたび、私は自分が世界で一番幸せな場所にいるのだと実感していた。
――だが、その平穏は、あまりにも唐突に破られた。
ドドドドドッ……!!
地響きのような重い蹄の音が、ポポロ村の静寂を容赦なく踏み荒らした。
さらに、ジャラジャラと鳴り響く不穏な鎧の金属音。
只事ではない気配に、村人たちが悲鳴を上げて散り散りに逃げ惑う気配が、店の外から伝わってきた。
「な、なんの音でしょうか……?」
「……チッ。面倒な奴らが来やがったな」
龍魔呂さんはスープの器を静かに置くと、鋭い三白眼を凝らして店の正面入り口へと視線を向けた。
バンっ!! と、勢いよく『鬼龍』の扉が蹴破られた。
「ここに、王都を追放された罪人、リリアナ・フォン・エスターはおるかッ!!」
怒号と共に店内に踏み込んできたのは、銀色に輝く豪奢な甲冑に身を包んだ男たち――エスター王国が誇る、王太子直属の『近衛騎士団』だった。
その数、ざっと三十名以上。手に手に長槍や白銀の剣を握りしめ、土足で店の中に雪崩れ込んできた。
先頭に立つのは、鷲鼻のいかにも傲慢そうな顔つきをした騎士隊長らしき男だった。男は店内を見回すと、私の姿を捉え、下品な歪んだ笑みを浮かべた。
「ふははは! やはりここに居たか、無能令嬢め! 探し回らせおって!」
「あ……あ……ッ」
騎士たちの身に纏う鎧の紋章――それは、私を悪夢のような絶望へと叩き落とした、王太子のエスター王家の紋章だった。
脳裏に、あの冷たい謁見の間での記憶が鮮明に蘇る。
『お前のような無能な女は、次期王妃には相応しくない!』
『出ていけ! 二度とこの国にその汚らしい顔を見せるな!』
耳元で、王太子の罵声がリフレインする。
血の気が引き、指先が凍りついたように冷たくなっていく。視界が白く濁り、急激に息が吸えなくなった。
「ハッ……カハッ……っ! あ……っ」
「おいおい、何だそのざまは。追放されてすっかり野良犬に成り下がったか?」
騎士隊長は嘲笑しながら、重い鉄靴を響かせて私へと一歩踏み出してきた。
「感謝するのだな、リリアナ! 慈悲深きアルベルト王太子殿下が、お前のような役立たずをもう一度連れ戻してやると仰せなのだ! 国のためにその地味な能力を差し出し、生涯王城の地下で土を耕し続けるならば、命だけは助けてやるとおっしゃっているのだぞ!」
連れ戻す? 王城の地下で、生涯土を耕し続ける?
それは、人としての尊厳を全て奪われ、一生死ぬまで奴隷として絞り尽くされるということだ。
嫌だ。怖い。あの冷たくて、暗くて、誰も助けてくれない恐怖の場所には、もう絶対に戻りたくない!
「嫌……嫌ですっ……! 私は……私は帰りません……っ!」
「黙れ、追放者が! お前に入選の余地などないわ! おい、その汚い手を縛り上げろ! 拒むなら足の骨の一本や二本、叩き折って引きずっていけ!」
「はっ!」と若い騎士二人がニタニタと笑いながら剣を抜き、私に向かって手を伸ばしてきた。
恐怖で膝がガクガクと震え、私は床にへたり込んでしまった。誰も助けてくれない。またあの地獄に連れ戻されるんだ。私はぎゅっと目を閉じ、身をすくめた。
――その時だった。
ズシン。
目の前に、巨大な『黒い壁』が立ちはだかった。
私の頭の上から差し込んでいた騎士たちの影が、一瞬で掻き消える。
見上げれば、そこにいたのは――黒のレザージャケットを羽織り、仁王立ちになった龍魔呂さんだった。
「……龍魔呂、さん……?」
「リリアナ、後ろに下がってろ」
彼の声は、恐ろしいほど静かだった。感情の欠片すら感じられない、底なしの静寂。
だが、その背中からは、今まで見たこともないような不穏な気が漂っていた。
騎士隊長は、突然目の前に現れた巨漢に一瞬怯んだものの、すぐに鼻で笑い、刀身を龍魔呂さんの胸元へと突きつけた。
「おいおい、何だこの野蛮な大男は? ここは貴様のような貧乏料理人が口を挟んでいい場所ではないぞ。我々はエスター王国近衛騎士団だ! 邪魔をするなら、国家反逆罪としてその首を叩き落とす――」
「おい」
龍魔呂さんは、騎士隊長の言葉をあっさりと遮った。
そして、胸ポケットから慣れた手つきで、赤と白の無骨な箱――『マルボロ赤』を取り出し、一本を唇に咥えた。
騎士隊長が「なっ……無視する気かッ!?」と顔を真っ赤にして怒鳴り散らす中、龍魔呂さんは左手をポケットに入れ、右手に真鍮製の重厚なオイルライターを取り出した。
親指が、フリントの金属輪を弾く。
――カチッ…………シュー…………カチン!
静かな店内に、重く、澄んだ金属音が鳴り響いた。
次の瞬間。
ドォォォォォン……ッ!!
目に見える「空気の歪み」が、龍魔呂さんを中心に爆発的に広がった。
店舗のガラス窓がカタカタと激しく震え、木製の床が悲鳴を上げる。
「ひ……っ!?」
騎士隊長の顔から、一瞬で余裕が消え去った。
それは、ただの脅しや魔力などではなかった。数千、数万の修羅場をくぐり抜け、幾多の命を屠ってきた者だけが纏うことができる、本物の『絶対的殺意』。
龍魔呂さんの左手――薬指にはめられた赤黒い指輪『鬼王の指輪』から、ドロリとした濃密な『赤黒い闘気』が溢れ出し、彼の全身を包み込んでいく。
黒髪が不気味に揺れ、彼がゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、いつも美味しいご飯を作ってくれる優しいマスターではなかった。
瞳の光は完全に途絶え、世界中の全ての生命を「ゴミ」としか思っていないかのような、冷酷無比な氷の眼光。
そう――かつて裏社会でその名を聞くだけで悪党たちが狂死したという、伝説の処刑人『DEATH4』の顔だった。
龍魔呂さんは紫煙を細く吹き出し、真鍮ライターをポケットに仕舞うと、騎士隊長を上から見下ろした。
「……テメェら。誰の女に、その汚ぇ指を指してんだ?」
その一言が放たれた瞬間、店内の温度が数十度も下がったかのような錯覚に襲われた。
圧迫感。圧倒的な死の質量。
まるで、巨大な竜の口の中に頭を突っ込まれたかのような絶望的な恐怖が、三十名の精鋭騎士たちを襲った。
「ガっ……ヒュ……っ!?」
「息が……す、吸えない……っ!」
先ほどまで威勢よく剣を抜いていた若い騎士たちが、龍魔呂さんが一歩踏み出しただけで、泡を吹いて次々と床に崩れ落ちていく。
ただの『威圧』だけで、鍛え上げられた騎士たちの精神が破砕されているのだ。
騎士隊長はガタガタと膝を激しく打ち鳴らし、股間に情けないシミを作りながら、床に腰を抜かした。
「あ、あ、あ……化物……! 貴様、一体何者だぁぁぁっ!?」
「俺か?」
龍魔呂さんは、赤黒い闘気を全身から滾らせながら、冷ややかに笑った。
「ただの、飯屋の親父だ。……ただし、ウチの看板娘に手を出そうとするゴミは、根こそぎ叩き潰す主義でね」
彼がそう呟き、ゆっくりと右手を持ち上げた瞬間――騎士たちの絶望の悲鳴が、ポポロ村の空に高く響き渡ったのだった。
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