第三章 エスター王国の来襲と、炎上勇者完全ざまぁ編
第地獄からの生還と、極甘な目覚めのキス
小鳥のさえずりと共に、柔らかな朝の光が薄いカーテン越しに部屋を照らし出していた。
まどろみの中、私は心地よい温もりと、規則正しい低い鼓動の音に包まれていた。
微かに香る、タバコと洗い立てのシーツの匂い。
ゆっくりと重い瞼を開けると、視界いっぱいに広がったのは、黒いタートルネック越しにも分かる、分厚くて広い胸板だった。
「……んっ」
私が小さく身をよじると、腰に回されていた太くて力強い腕が、さらに私をギュッと引き寄せた。
見上げれば、そこには規則正しい寝息を立てる龍魔呂さんの整った顔がある。いつもは鋭く周囲を威圧する三白眼も、今は穏やかに閉じられ、無防備な表情をさらしていた。
夢じゃ、なかった。
私たちは本当に、あの恐ろしい地獄から生きて帰ってきたのだ。
理不尽な神のシステムを論破し、時を操る始祖竜を仲間に引き入れ、地獄の絶対的支配者である閻魔大王を打ち倒して。
すべては、彼がずっと胸の奥底で悔やみ続けていた、たった一人の愛する弟――ユウ君の魂を取り戻すために。
(本当によかった……)
安堵と幸福感で胸がいっぱいになり、私はそっと、彼の頬に手を伸ばした。
ゴツゴツとした、戦い抜いてきた男の輪郭。少しだけ伸びた無精髭が、指先にチクチクと触れる。
その感触を愛おしく撫でていると、不意に、彼の手が私の手をスッと包み込んだ。
「……朝から、イタズラか?」
「ひゃっ!?」
驚いて肩を跳ねさせると、龍魔呂さんがゆっくりと目を開けた。
寝起きの、いつもよりさらに低くて掠れたハスキーボイスが、私の耳元を甘く震わせる。
「りゅ、龍魔呂さん……起きてたんですか?」
「お前がモゾモゾ動くからな。……よく眠れたか?」
「はい……。龍魔呂さんの腕の中、すごく温かくて、安心して……一度も目を覚ましませんでした」
私が正直に答えると、彼はふっと目を細め、たまらなく愛おしそうな視線を私に向けた。
そして、大きな手で私の後頭部を優しく包み込み、そのまま引き寄せる。
「ん……っ……」
触れ合うだけの優しいキスから始まり、やがて角度を変えて深く、熱を帯びた口付けへと変わっていく。
朝からこんなに甘やかされて、頭の中がふわふわと溶けてしまいそうになる。
彼の熱い吐息と、かすかなタバコの香りが、私の理性をごっそりと奪っていく。
「はぁっ……んんっ……だ、だめです、龍魔呂さん……っ」
私はなんとか息継ぎをして、彼の手をトントンと叩いた。
「……なんでだ。もう地獄の閻魔もいねぇし、邪魔する奴は誰もいねぇだろ」
彼が不満げに眉を寄せる。
「だ、だって……隣の部屋で、ユウ君が寝てるんですよ? もし起きちゃったら……っ」
真っ赤になって抗議する私を見て、龍魔呂さんは「あぁ……そうだったな」と苦笑いをした。
「……お前の言う通りだ。今はまだ、我慢してやる。だが……夜は覚悟しとけよ?」
「も、もうっ! 龍魔呂さんのエッチ!」
ポンポコと彼の広い胸を叩くと、彼は大きな声を出さずに肩を揺らして笑い、私の額にチュッと短いキスを落とした。
「ほら、起きるぞ。ユウの奴も、そろそろ腹を空かせて起きてくる頃だ」
「はいっ!」
私たちはベッドから抜け出し、身支度を整えて一階の厨房へと向かった。
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トントントントンッ……。
厨房からは、すでに小気味よい包丁の音が響いていた。
龍魔呂さんは黒いエプロンを身に着け、いつもの手際で朝食の準備を始めている。
そして、その傍らには。
「うわぁ……兄ちゃん、すっごい速い! 見えないよ!」
カウンター席に身を乗り出し、目をキラキラと輝かせている十歳の少年――ユウ君の姿があった。
実体を取り戻し、一晩ぐっすりと眠った彼の顔には、地獄の瘴気による顔色の悪さは微塵もなく、年相応の健康的な血色が戻っていた。
「おう、ユウ。起きてたか」
「うん! いい匂いがしたから、起きちゃった。……兄ちゃん、いつの間にそんなにお料理上手になったの? スラムにいた時は、いつも焦げたパンとか、硬いお肉ばっかりだったのに」
ユウ君の無邪気な言葉に、龍魔呂さんは少しだけ気まずそうに鼻の頭を掻いた。
「……まぁ、色々あったんだよ。お前には美味いもんを腹いっぱい食わせてやりたかったからな。……それに、ウチには最高の野菜を育ててくれる魔法使いがいるからな」
龍魔呂さんがチラリと私の方を見る。
「あっ、リリアナお姉ちゃん! おはよう!」
「おはよう、ユウ君。よく眠れた?」
「うん! すっごくふかふかのベッドだった! それに、怖い夢も見なかったよ」
満面の笑みで答えるユウ君の頭を、私は優しく撫でた。
地獄の『賽の河原』で、十年間も一人で石を積み続けていた小さな魂。それが今、こうして温かい光の中で笑っている。
その事実だけで、私の胸は再び熱くなった。
「よし、できたぞ。ポポロ村特製、朝の定食だ」
龍魔呂さんが、湯気を立てるお膳を三つ、カウンターに並べた。
メニューは、私の豊穣の魔法で育てた極上の野菜と、村の特産品をふんだんに使った贅沢な朝ごはんだ。
ホカホカに炊き上がった『米麦草』の白いご飯。
その横には、分厚い『肉椎茸』を甘辛い醤油草のタレでこんがりとソテーしたメインディッシュ。
そして、まん丸の『月見大根』とシープピッグの豚肉を使った、具だくさんの熱い豚汁。
付け合わせには、シャキシャキの『レ足ス』と『人参マンドラ』の千切りサラダ(※マンドラは収穫時にうるさいが、味は絶品だ)。
「うわぁぁっ……! すっごく美味しそう!」
ユウ君がゴクリと喉を鳴らす。
「ほら、食う前にちゃんと手を合わせろよ」
「うん! いただきます!」
三人で手を合わせ、一斉に箸をつける。
私はまず、肉椎茸のソテーを一口かじった。
「んん〜っ! 美味しいっ!」
お肉のようにジューシーで弾力のある肉椎茸の旨味と、醤油草の香ばしいタレが絶妙に絡み合い、ご飯が止まらなくなる味だ。
「おいしーっ! このお肉みたいなキノコ、すっごく味が濃いよ! 大根もお汁を吸ってて、すっごく甘い!」
ユウ君も、小さな口をいっぱいに開けて、夢中でご飯をかき込んでいる。
「ゆっくり食え。おかわりはいくらでもあるからな」
龍魔呂さんは、自分が食べるよりも先に、ユウ君が美味しそうに食べる姿を、ただただ優しい目で見つめていた。
それは、どこにでもある、ありふれた朝の風景かもしれない。
けれど、血塗られた処刑人として生きるしかなかった彼にとっても、無能だと追放され泥水をすすった私にとっても、そして地獄の底で泣き続けていたユウ君にとっても。
この温かくて、美味しくて、笑い合える食卓は、どんな奇跡よりも尊い宝物だった。
「リリアナ」
「はい」
「……美味いか?」
「はいっ。世界で一番、美味しいです!」
私が満面の笑顔で答えると、彼は満足そうに頷き、自分の豚汁を啜った。
エスター王国を追放され、すべてを失った私。
でも、今はもう何も怖くない。私には、愛する人と、守るべき家族がいるのだから。
窓の外では、ポポロ村の穏やかな風が吹き抜け、新しい一日の始まりを祝福しているようだった。
地獄から生還した私たちが創り出す、極甘で、温かいスローライフの幕開け。
……この時の私はまだ、この平和な村に、過去の因縁という名の厄介な影が忍び寄りつつあることなど、知る由もなかったのだった。




