EP 7
決戦前夜。タバコの香りと甘い誓い
神界での密かな取引が成立したとも知らず、私たちはポポロ村の小料理屋『鬼龍』で、明日に迫った「地獄殴り込み」のための準備を進めていた。
店の営業は「店主都合により数日休業」という札を出し、ガジェットさんから次元転送で送られてきた重火器や弾薬のチェック、そして地獄という未知の環境に耐えうるための特製弁当の仕込みなどを、無言のまま進めていった。
すべての準備が終わった頃には、夜もすっかり更けていた。
店内には、客のいない静寂を満たすように、ショパンの『夜想曲第20番』がレコードから静かに流れている。
哀愁を帯びたピアノの旋律が、決戦前夜の張り詰めた空気を、ほんの少しだけ柔らかく解きほぐしてくれていた。
「……終わったな」
厨房のシンクをピカピカに磨き上げた龍魔呂さんが、手を拭きながらカウンターへと出てきた。
彼はいつもの黒いエプロンを外し、タートルネックの首元を少しだけ緩める。
私は、淹れたてのポポロ・コーヒーを二つのマグカップに注ぎ、彼の隣の席へと腰を下ろした。
「お疲れ様です、龍魔呂さん。……少し、休みましょう」
「あぁ」
彼が席に座ると、大きな体躯から微かにタバコと、出汁の優しい香りが漂ってきた。
一口コーヒーを啜り、彼はポケットから真鍮のオイルライターと、マルボロ赤のソフトパックを取り出した。
カチッ、という澄んだ音が静かな店内に響く。いつもなら悪党を震え上がらせる処刑の合図も、今夜だけは、彼の波立つ心を鎮めるためのものだった。
紫煙が、薄暗い天井へと向かって細く立ち昇っていく。
私たちはしばらくの間、言葉を交わすことなく、ただ隣り合ってコーヒーの温もりを感じていた。
明日には、地獄のゲートを開き、生きたまま死者の領域へ足を踏み入れる。神界の法を破り、閻魔という途方もない存在と対峙する。
もし失敗すれば、命はおろか、魂ごと完全に消滅させられるかもしれない。
圧倒的な恐怖と緊張が、見えない真綿のように首を絞めつけてくるのを感じていた。
「……リリアナ」
ふいに、静かなピアノの音色に混じって、低く、かすれた彼の声がした。
「はい」
私が顔を向けると、彼はタバコを灰皿に置き、真っ直ぐに私の目を見つめていた。
その鋭い三白眼には、普段の揺るぎない自信や強さはなく、どこかひどく頼りなげで、臆病な光が宿っていた。
「……本当に、いいのか?」
「え?」
「お前は、まだ若い。これからの人生、ポポロ村で自分の畑を育てて、もっと普通の幸せを手に入れることだってできる。……神を敵に回して、俺みたいな血塗られた男と一緒に、地獄に落ちるような罪を背負う必要なんて、どこにもねぇんだぞ」
それは、彼がずっと心の奥底に抱えていた『恐れ』だった。
私を愛しているからこそ、自分の暗黒に私を巻き込みたくない。私だけは、光の当たる場所で笑っていてほしい。
無敵の処刑人『DEATH4』が見せた、あまりにも不器用で、痛々しいほどの優しさ。
「もし……明日、俺が地獄の底に呑まれて、二度と帰れなくなったら。……お前だけは、ロードの力で絶対に現世へ逃げろ。これは、俺からの最後の命令だ」
絞り出すような彼の言葉。
その言葉の裏にある深い愛情と自己犠牲に、私の胸は張り裂けそうになった。
――けれど。私は、もうただ守られているだけの弱い令嬢ではないのだ。
「……嫌です」
私は、毅然とした声で言い放った。
そして、灰皿に置かれた彼のタバコを火消しに押し付けて完全に消すと、彼の大きな右手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。
ビクンッと、彼の肩が震える。
「龍魔呂さん。……私、言いましたよね。あなたが地獄に行くなら、私も一緒に行くって。置いていかれるなんて、絶対に許しません」
「リリ……お前な……っ」
「それに、『帰れなくなったら』なんて、縁起でもないこと言わないでください」
私は、彼の手に自分の頬をすり寄せ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私たちは、死にに行くわけじゃありません。ユウ君の魂を取り戻して、三人で、絶対にここへ帰ってくるんです。……そうでしょう?」
「……ッ」
「私は、龍魔呂さんの作る美味しいご飯がなきゃ、もう生きていけません。だから、絶対に帰ってきてもらいます。帰ってきて……またここで、一緒に温かいご飯を作って、笑い合うんです。それが、私たちの明日です」
私の言葉一つ一つが、彼の張り詰めていた心の糸を、優しく解きほぐしていくのがわかった。
私の『豊穣の魔力』が、無意識のうちに温かい光となって彼の手から伝わり、彼の冷え切っていた魂を包み込んでいく。
長い、長い沈黙が落ちた。
レコードのノクターンが、静かな終盤の旋律へと差し掛かっている。
やがて、彼は深く、胸の底から息を吐き出した。それは、私への完全なる降伏を意味する溜息だった。
「……あぁ、そうだな。俺の負けだ。お前には……一生、敵う気がしねぇよ」
次の瞬間。
私の腰に、彼のもう片方の太い腕が回された。
グンッ、と強い力で引き寄せられ、私は彼の膝の上に半ば抱き抱えられるような体勢で、すっぽりとその大きな腕の中に閉じ込められた。
「きゃっ……りゅ、龍魔呂さ……んっ」
言葉の続きは、私の唇を塞いだ彼の熱い吐息によって奪われた。
タバコの微かな香りと、コーヒーのほろ苦さ。
彼自身の高い体温が、私の全身を直接溶かしてしまいそうなほど熱く、深く伝わってくる。
「ん……っ……ぁ……」
私が息継ぎのためにわずかに唇を離すと、彼は逃がさないとばかりに私の後頭部に手を添え、角度を変えて何度も、何度も、確かめ合うようにキスを落としてきた。
普段の乱暴な言葉遣いとは裏腹な、羽が触れるようなひどく優しい口付け。
愛おしくて、壊してしまいそうで、それでも絶対に離したくないという、彼の狂おしいほどの熱情が、唇を通して私の脳髄を痺れさせていく。
「はぁっ……龍魔呂さん……っ」
ようやく唇が離れると、至近距離で交わる視線に、私は顔から火が出そうになった。
彼は、私の乱れた前髪を大きな指先で優しくすくい上げ、額にコツンと自分の額を合わせた。
「……絶対だ。何があっても、お前とユウを連れて、この店に帰ってくる。……お前が育てた太陽芋を、また一緒に食うためにな」
「……はいっ。約束です」
トクトクという彼の力強い心音と、私の早鐘のような心音が、ピタリと重なり合う。
この温もりが一つあれば、地獄の暗闇だって、閻魔の怒りだって、何も怖くはない。
私たちは、互いの命と魂を預け合うように、夜が明けるまで強く、痛いほどに抱きしめ合っていた。
決戦前夜。
神の理を壊し、運命を捻じ曲げるための、世界で一番甘くて、揺るぎない誓いの夜だった。
読んでいただきありがとうございます。
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