EP 2
強面マスターの無自覚な色気と、絶品『ピラダイの漬け丼』
翌朝、私は『鬼龍』の二階にある従業員用の小さな部屋で目を覚ました。
ふかふかの布団、清潔なシーツ、そして窓から差し込む朝の光。王城の冷たい地下室で寝起きしていた頃とは比べ物にならないほど、ここは暖かくて穏やかな空間だった。
けれど、私には帰る場所がない。国を追放された以上、ここで一生保護してもらうわけにはいかないのだ。
私は意を決して一階の店舗に降り、厨房で仕込みをしている龍魔呂さんに頭を下げた。
「あの、龍魔呂さん。私……行く当てがありません。どうか、このお店で働かせていただけないでしょうか。掃除でも皿洗いでも、なんでもしますから……っ!」
私の必死の懇願に、龍魔呂さんは柳刃包丁の手を止め、鋭い三白眼で私を見下ろした。
心臓が早鐘のように打つ。断られたらどうしよう。
しかし、彼は短くため息をつくと、無造作に私の頭をポンと撫でた。
「……ま、ちょうどフロアの接客が足りなくて困ってたところだ。住み込みで三食付き。給料は売り上げから歩合で出す。それでいいなら、今日から働け」
「っ、はい! ありがとうございます!」
こうして、私はポポロ村の小料理屋『鬼龍』の店員として、新しい人生を歩み始めた。
◆◆◆
昼の営業が始まると、私はすぐにこの店の「異常さ」に気づくことになった。
「マスター! 今日も素敵ねぇ。私、マスターの顔を見るためだけに隣町から来てるのよ?」
「マスター、お酒おかわり! ねえ、後で少しお話ししてくれない?」
「ああん、マスターが魚を捌く時のあの腕の筋、たまらないわ……!」
……女性客の熱気が、凄まじいのだ。
村の若い娘から、行商人の女性、果てはお忍びで来ているらしい帝国軍の女性将校まで。客の八割が女性で、皆一様にカウンターの内側にいる龍魔呂さんに熱視線を送っている。
当の龍魔呂さんはというと、女性たちの黄色い歓声など全く気にも留めず、黙々と魚を捌いていた。
彼が使っているのは、長さが三十三センチもある『本焼き』の美しい柳刃包丁だ。
まな板の上に乗っているのは『ピラダイ』という、凶暴な肉食魚の魔獣。並の料理人では鱗を剥ぐことすら難しい硬い魚だが、龍魔呂さんの包丁は、まるで水面を滑るかのように音もなくピラダイの身を切り裂いていく。
細胞を一切潰さない、神業のような包丁捌き。切り出された身は、宝石のようにキラキラと輝いていた。
(すごい……魔法みたい……)
黒のレザージャケットを脱ぎ、腕まくりをしたワインレッドのタートルネック姿。隆起した前腕の筋肉と、伏せられた長い睫毛。時折「お待ちどう」と低く響く声。
本人はただ真面目に料理を作っているだけなのだろうが、その無骨な振る舞いから漏れ出す「大人の色気」が凄まじい。
彼が天然の、それも無自覚なジゴロであることを、私は働き始めてわずか数時間で理解した。なんだか、少しだけ胸の奥がモヤモヤするのは、気のせいだろうか。
「おい、新入り!」
ふいに、乱暴な声で呼ばれ、私はビクッと肩を震わせた。
声をかけてきたのは、昼間から酒をあおっていた、柄の悪い傭兵風の男だった。
「お前、見ない顔だな。こんな辺境の店でくすぶってないで、俺といいことしねぇか? たっぷりと可愛がってやるよ」
男はニタニタと下卑た笑みを浮かべ、私の腕を強引に掴もうと手を伸ばしてきた。
王宮で虐げられていた時の記憶がフラッシュバックし、足がすくんで動けない。
「ひっ……やめ……」
男の汚い手が、私の肩に触れる――その、直前だった。
ピシッ、と。
店内の空気が、文字通り「凍りついた」。
「…………」
カウンターの奥。龍魔呂さんが、ピラダイの骨を断つ包丁の動きをピタリと止めていた。
彼は男の方を見すらしていない。ただ、まな板を見つめたまま、地を這うような低い声で、ポツリと呟いた。
「――俺の店員に、気安く触るな」
その瞬間、龍魔呂さんの背中から、目に見えない巨大な「何か」が膨れ上がったように見えた。
赤黒く、ねっとりとした、圧倒的な殺意と威圧感。
それは男の首に目に見えない刃を突きつけたかのように、男の動きを完全に停止させた。
「ひ、ひぃぃぃっ!?」
男は顔面を土気色に染め、ガタガタと全身を震わせると、代金も払わずに店から転がるように逃げ出していった。
静まり返る店内。龍魔呂さんは何事もなかったかのように、「騒がせちまったな」とだけ言い、再び魚を引き始めた。女性客たちは「怒った顔も素敵……!」とさらに頬を染めている。
私は、ペタンと床に座り込んでしまった。
怖い、のではない。
彼の圧倒的な力と、理不尽から私を守ってくれたという事実が、強烈な「安心感」となって私を包み込んでいたのだ。守られることが、こんなにも心強いなんて知らなかった。
◆◆◆
夜のBAR営業も終わり、店に静寂が訪れた頃。
カウンターの隅に座る私の前に、コツン、と一つのどんぶりが置かれた。
「初日の賄いだ。食え」
「あ、ありがとうございます……わぁっ!」
どんぶりの上には、昼間に彼が捌いていたピラダイの身が、艶やかな琥珀色に染まって敷き詰められていた。『醤油草』を使った特製のタレに漬け込まれた、絶品の『ピラダイの漬け丼』だ。中央には、美しい黄金色の卵黄が乗っている。
一口食べると、とろけるような魚の脂の甘みと、甘辛い特製ダレの風味が口いっぱいに弾けた。ピラダイ特有のコリコリとした食感が心地よく、濃厚な卵黄を崩して絡めると、もう言葉が出ないほど美味しい。
「……おいしいです。ほっぺたが、落ちちゃいそう……」
夢中で頬張る私を見て、龍魔呂さんはフッと、口角を少しだけ上げて笑った。
「そうか。お前がいい食べっぷりをしてくれると、作り甲斐がある」
その、強面の彼が見せた、ひどく不器用で優しい笑顔。
ドクン、と。
私の心臓が、大きく跳ねた。顔が熱くなる。
これは、雑炊の温かさのせいだろうか。それとも――。
◆◆◆
翌朝。
私は店の裏手にある、小さな家庭菜園の前に立っていた。
龍魔呂さんが趣味で育てているという『太陽芋』や『陽薬草』が植えられていたが、辺境の痩せた土地のせいで、どれも小ぶりで葉が枯れかけていた。
「これなら、私の魔法でも少しはお役に立てるかも……」
私はそっと膝をつき、枯れかけた太陽芋の葉に両手をかざした。
私を「無能」へと追いやった、地味な植物育成魔法。手のひらから淡い緑色の光がこぼれ、土へと染み込んでいく。
土の中の根が、喜んで歌う声が聞こえる。もっとお水が欲しい、もっと光が欲しい。その声に答えるように、魔力を注ぎ込んだ。
すると――。
シュルシュルシュルッ! と、凄まじい勢いでツルが伸び、枯れかけていた葉が太陽のように眩しい緑色に染まった。
あっという間に畑全体が黄金の輝きを放ち、土を押し上げるようにして、私の頭よりも大きな、丸々とした超特大の『太陽芋』がいくつも顔を出したのだ。
「えっ……? うそ、こんなに大きくなるなんて……」
「――おい。これは、お前がやったのか?」
背後から声がして振り返ると、勝手口から出てきた龍魔呂さんが、目を丸くして畑を見つめていた。
怒られる、と思った。勝手なことをして、化け物のような野菜を作ってしまったのだから。
「ご、ごめんなさい! 私、少し元気になればいいなと思っただけで、まさかこんな――」
しかし、龍魔呂さんは怒るどころか、土から飛び出た巨大な太陽芋を手に取り、ナイフで少しだけ削って口に含んだ。
その瞬間、彼の鋭い目がさらに大きく見開かれた。
「……信じられねぇ。なんだこの甘みと、密度の高さは。俺が今まで仕入れてきたどんな高級食材より、桁違いに質がいい」
「ほ、本当ですか……?」
「ああ。……リリアナ」
彼は、初めて私の名前を呼んだ。
そして、私の前に片膝をつき、私の土まみれの小さな手を、彼の手でギュッと包み込んだ。
「俺の料理は、最高の食材があって初めて完成する。……お前が育てたこの野菜がないと、俺の料理はもう完成しねぇよ。すげぇ才能だ」
「あ……っ」
無能だと、誰からも必要とされなかった私。
その私が、今、この強くて優しくて、とびきり美味しい料理を作る彼に、「必要だ」と言われたのだ。
「私……ずっとここに、居てもいいですか……?」
「当たり前だ。お前はもう、ウチの大事な看板娘だからな」
私は、ポロポロと泣きながら何度も頷いた。
王城での苦しい日々は、きっと、この温かい場所と彼に出会うための試練だったのだ。
私は初めて、自分の居場所を見つけたのだった。
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