第二章 地獄殴り込み編
残酷な世界の理と、地獄への同伴宣言
窓から差し込む青白い月明かりが、ポポロ村の小料理屋『鬼龍』の二階の部屋を淡く照らし出していた。
機神ラビークでの激戦と闘気の暴走から生還した龍魔呂さんの熱は、私の魔力による治癒のおかげで、ようやく平熱近くにまで下がっていた。
「……わりぃ。また、お前に泣かされちまったな」
先ほどの、私を突き放そうとした不器用な愛と、それを強引に抱きしめ返した私の覚悟。
彼は観念したように息を吐き、私の肩に顔を埋めたまま、静かな寝息を立て始めた。
私は、彼が完全に眠りにつくまで、その大きな背中を子供をあやすように優しくトントンと叩き続けた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ふと、背後の窓辺で、衣擦れの音がした。
「……リリ」
ビクッと肩を震わせて振り返ると、そこに立っていたのは親友のユイちゃんだった。
ショートパンツに活発なボブカット。いつもなら無邪気な笑顔を浮かべている彼女だが、今の彼女の瞳には、神としての静謐で、どこかひどく悲しげな色が宿っていた。
「ユイちゃん……」
私が小さく声をかけると、その声に反応したのか、眠っていたはずの龍魔呂さんがゆっくりと身を起こした。
その三白眼にはまだ疲労の色が濃いが、ユイちゃんの只事ではない雰囲気を察取り、彼は鋭い視線を向けた。
「……何だ、ユイ。神様が、こんな夜更けに何の用だ」
「たつまろ」
ユイちゃんは、窓辺からベッドの傍らへと歩み寄り、真っ直ぐに龍魔呂さんを見つめた。
「……ユウ君が今、どこに居るか、分かってる?」
ユウ君。
それは、龍魔呂さんがスラムで必死に守り育て、地下格闘場で理不尽に奪われた、たった一人の弟の名前だ。
龍魔呂さんの肩が、ビクリと震えた。
「……死んだ人間がどこへ行くかなんて、決まってるだろ。天国か、地獄か、それともただの虚無かだ」
「そう。天国か、地獄か。……でもね、たつまろ」
ユイちゃんは、ギュッと拳を握りしめ、絞り出すように告げた。
「ユウ君は今、地獄に居るんだよ」
ドクン、と。
私の心臓が、嫌な音を立てた。
龍魔呂さんの顔から、サッと血の気が引いていくのがわかった。
「……は? 地獄? 馬鹿言ってんじゃねぇぞ、ユイ」
龍魔呂さんの声が、微かに震えていた。
「あいつは、たったの十歳で病気で死んだんだ。人を傷つけたことも、罪を犯したこともねぇ! 俺が……俺が代わりに血で手を染めて、あいつだけは綺麗なままでいられるように守ってきたんだ! それなのに、なんであいつが地獄になんて落ちなきゃならねぇんだ!!」
「それが……世界の理なんだよ」
ユイちゃんは、痛ましそうに目を伏せた。
「『賽の河原』って、聞いたことない? 親より先に死んだ子供はね、それだけで『親を悲しませた罪』として、地獄の河原に落とされる。そこで、親の供養のために小石を積み上げて塔を作るんだ。でも、もう少しで完成するという時に、必ず地獄の鬼がやってきて、鉄棒でその塔を崩してしまう」
残酷すぎる宣告だった。
何の罪もない小さな子供が、親より先に死んだという、自分ではどうしようもない理由だけで。
永遠に終わらない苦役を強いられ、鬼に鞭打たれながら泣き叫んでいる。
「ユウ君は、あの地下格闘場のゴミ捨て場で死んだあの日からずっと……一人ぼっちで、冷たい河原で石を積み続けているんだよ」
「――――ッ!!」
龍魔呂さんの口から、言葉にならない獣のような呻き声が漏れた。
彼はシーツを握りしめ、ギリギリと歯を食いしばる。その目から、真っ赤な血の涙が再び溢れ出そうになっていた。
「ふざけんな……ふざけんなッ!! なんだそのクソみたいなルールは! あいつが何をしたって言うんだ! あいつを理不尽に殺したのはあのクソ野郎どもで、あいつは被害者だろうがッ!!」
怒りと絶望。
もし、ここに地獄への扉があったなら、彼は今すぐにでも単身で飛び込み、赤黒い闘気で鬼たちを皆殺しにしていただろう。
「……僕だって、こんなルール間違ってると思う。でも、僕は『雷帝神』であって、『世界のシステム』を管理する神じゃない。死者の魂の行き先を決めるのは、地獄を統べる閻魔や、世界の法を司るシステムそのものなんだ」
「……どうすればいい」
龍魔呂さんは、殺気と悲哀の入り混じった声で、低く唸った。
「どうすれば……あいつを、助けられる」
その問いに、ユイちゃんは静かに答えた。
「ユウ君を助け出すには、ただ地獄に殴り込むだけじゃダメだ。魂を現世に連れ戻しても、肉体がなければすぐに消滅してしまう。……本当に彼を救うための条件は、三つある」
ユイちゃんは、指を一つずつ立てていった。
「一つ。神界の法を司る絶対システム、聖獣機神『ガオガオン』と神々を説得、あるいは黙認させること。死者の蘇生は、世界に対する重罪だからね」
「二つ。地獄のゲートをこじ開け、閻魔の監視を突破して、ユウ君の魂を奪い返すこと」
「そして三つ。これが一番難しい。……時を操る力を持つ『始祖竜クロノ』を味方につけ、ユウ君の魂の時間を巻き戻して、死ぬ前の無傷な状態へと生き返らせること」
神とシステムの説得。
地獄への殴り込み。
伝説の始祖竜による時間逆行。
どれか一つでも、世界の理をひっくり返すほどの途方もない偉業だ。
それを全て成し遂げなければ、ユウ君を助け出すことはできない。
「……」
龍魔呂さんは、絶望的な壁の高さを前に、深い沈黙に落ちた。
自分の命一つ投げ出して済む問題ではない。
神々を敵に回し、世界の因果そのものを破壊する。それは、彼自身が文字通り「世界最大の罪人」となることを意味していた。
だからこそ彼は、私を巻き込まないために、一人で全てを抱え込もうとしていたのだ。
「……たつまろ。僕は、君がどんな道を選んでも君の味方だよ。でも、これは……」
ユイちゃんが心配そうに言葉を濁した時。
私は、龍魔呂さんの震える大きな手を、両手でギュッと強く握りしめた。
ビクッと、彼が驚いて私を見た。
「龍魔呂さん」
私は、彼の鋭い三白眼を真っ直ぐに見つめ返し、静かに、けれど絶対に揺るがない決意を込めて微笑んだ。
「……やりましょう」
「っ……お前、自分が何を言ってるか分かってんのか。神を敵に回すんだぞ。お前のその平和な生活が――」
「私の平和な生活は、龍魔呂さんがいなければ成り立ちません」
私は、彼の手を自分の頬に寄せた。
「ユウ君は、たった一人の大切な弟さんなんでしょう? そんな小さな子が、地獄でずっと泣いているなんて、絶対に間違っています。神様が作ったルールが間違っているなら……私たちが、そのルールを壊せばいいんです」
「リリ……」
「私、言いましたよね。あなたが地獄へ行くというなら、私も一緒に地獄へ行くって」
私を無能だと見捨てたエスター王国の理不尽から、私を救ってくれたのは彼だった。
ならば今度は、世界という理不尽から、私が彼と、彼の弟を救い出す番だ。
「始祖竜クロノさんを探して、ガオガオンさんを説得して、地獄のゲートを開けましょう。私にできることなら、私の魔力でも命でも、なんでも使ってください」
私の言葉に、龍魔呂さんは息を呑み、そして……深く、長いため息を吐いた。
それは、諦めと、そして底知れないほどの愛情が入り混じった溜息だった。
「……お前って奴は。本当に……俺にはもったいないくらい、強くて馬鹿な女だ」
彼は、私をきつく抱き寄せると、その広い背中に私の腕を回させた。
そして、ユイちゃんの方をキッと睨み据えた。
「ユイ。始祖竜クロノってのは、今どこに居る。ガオガオンの説得はどうすればいい」
その目に宿ったのは、迷いや絶望ではない。
愛する弟を地獄から奪い返し、愛する女と共に生きて帰るという、修羅の覚悟の光だった。
「ふふっ。やっぱり、リリが一緒ならそう言うと思った」
ユイちゃんは、神としての悲しげな表情を捨て、いつもの無邪気で、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ガオガオンの説得……というか『論破』なら、心当たりがあるよ。このポポロ村に、世界で一番口が回る『修羅の極道弁護士』がいるからね。まずは明日、彼女の事務所へ行こう」
地獄殴り込みのカウントダウン。
私たちに課せられた、世界最大の罪への挑戦。
けれど、温かい彼の手を握っている限り、私の心には一ミリの恐怖もなかった。
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