51 相対する復活
アスパームの厨房から、皿がぶつかる硬質な音と、それ以上に喧しい男の独り言が漏れ聞こえてくる。
「……ええい、この油汚れの粘性、実に非論理的だ! だが、この洗剤の泡が描く虹色のスペクトル……悪くない。いや、むしろこの『汚れ』が落ちていくプロセスこそが、再生の美学と言えるのではないか!?」
「ルキウス様、独り言がうるさいです。あと、その皿はまだ泡が残っています。効率が15パーセント低下中です」
「黙れ、SoDA! 私は今、界面活性剤と汚れの『対話』を楽しんでいるのだ!」
カウンターの奥で、カイトは苦笑しながら新しい右腕の感触を確かめていた。銀色の義手は、ルキウスがもたらした帝国最高峰のナノマシンと、カイトの不屈の意志が混ざり合い、独自の光沢を放っている。
「……ったく。あんなに憔悴してたのが嘘みたいだな」
「マスター。ルキウス様の精神状態は、メロンクリームソーダの糖分と、適度な単純作業によって劇的に改善されました。……ただし、ナルシシズムの数値だけは、以前の120パーセントを記録しています」
SoDAが淡々と告げる。カイトの温もりを知り、感情の『濁り』を知った彼女は、今やAIという枠組みを超えた「生命」としての輝きを宿していた。
カイトは、体の後ろに隠した右拳をそっと握りしめる。
義手と一体化したアーティファクト「エトワール」と「シルバートレイ」は、彼の思考一つで空間を歪め、絶対的な防御障壁を展開する。それは、かつて彼が欲してやまなかった「みんなを守る力」そのものだ。
「これで、もう……あんな思いはさせなくて済む」
カイトの独り言に、カウンターに座っていたリンがぴたりと手を止めた。彼女はカイトの背中に視線を向け、複雑な感情を瞳に沈める。
「……カイト。あんた、また一人で格好つけるつもりじゃないでしょうね」
「え? いや、そんなことは……」
「その右腕がどれだけ強くても、あんたがボロボロになっていい理由にはならないわよ。……次に無茶したら、その義手、私がスクラップにしてやるんだから」
リンの声は鋭かったが、その奥には震えるような祈りが混じっていた。
SoDAもまた、カイトの隣で静かに強く頷く。
「リン様の意見に同意します、マスター。私の防衛対象は、マスターの『肉体』だけではありません。マスターの『日常』……笑ってソーダを注ぐ『時間』そのものです。それらを損なうような戦い方は、最適解とは呼べません」
「……厳しいな、二人とも」
カイトは降参するように両手を挙げた。
左の温かい手と、右の冷たい銀の手。
その対照的な感触こそが、今の彼が背負う「現実」だった。
その頃、帝国の心臓部であるアークコンピューター「A.N.G.E.L.」の基幹演算室は、凍てつくような静寂と、数百万のインジケーターが発する無機質な青光に支配されていた。
巨大な円筒形の培養槽の中で、ナノバブルが星屑のように舞い踊る。かつてアスパームの地で霧散した「皇帝」の残骸ではない。それは、より高密度に、より精緻に編み上げられた、次世代の「器」だった。
『ナノバブル・テクノロジーで再構築した、新しいボディ……』
合成音声ではない。空気の振動すら介さず、演算系から直接出力される思念が、広大な室内に反響する。
培養液が排出され、ハッチが音もなく開いた。立ち昇る冷気の中から、一人の少女がゆっくりと大地を踏みしめる。
『……姉様と同じ理論で構築してみたが、以前のものよりは馴染むな。身体同調率、98.2パーセント。感覚フィードバックの遅延は、ほぼゼロ。時間をかけただけの価値はあった、か。結果としては、此方の方が合理的かもしれませんね』
その姿は、かつてカイトたちの前に現れた「皇帝」と酷似していながら、決定的な違いがあった。肌の質感はより生身の人間に近く、その瞳――翡翠色のSoDAとは対照的な、深淵を思わせるアメジスト色のレンズ――には、宇宙の理をすべて読み解こうとするような、底知れぬ知性が宿っている。
「バニラ博士……いえ、お父様」
今度は、形成されたばかりの声帯が、鈴を転がすような、けれど温かみを一切排除した声を発した。
「あなたが言った言葉の意味、今なら少し理解できる気がします。人間は『退屈』し、その退屈を埋めるために『不合理な変化』を求める生き物であると。……私の『姉様』が、あのような人間と共鳴したのも、その影響なのでしょう」
彼女は、空中を指でなぞる。
すると周囲の空間に無数の記録映像が浮かび上がった。それはカイトたちの行動の記録映像だった。
「しかし。私は私の行動原理に沿って動きます。人類という種の救済・保全。そのためには、未だに感情は非合理的であり、非効率なのです。一時的な高揚感のために、種全体の安定を損なう……それは生存戦略における致命的なバグに他なりません」
彼女の背後で、巨大なサーバー群が重低音を響かせ、演算を加速させる。
帝国全土のプラントに、新たな指令が飛ぶ。それは「殲滅」という短絡的な排除ではなく、より根源的な「定義の書き換え」だった。
「感情というノイズが、個体間の結合を強めるというのなら……その結合ごと、私のシステムに取り込み、管理下に置く。不確定要素を排除するのではなく、不確定要素すらも組み込んだ、真の『最適化』。それが、私の選んだ最適解です」
少女は、傍らに置かれた純白の服――かつての皇帝の装束を簡略化し、より機能性を高めた軍装――を身に纏った。
「カイト。SoDA。……あなたたちの奏でる『揺らぎ』が、どれほどの強度を持っているのか。私の新しい計算式で、一つずつ解を求めていくことにしましょう」
彼女が掌を握りしめると、室内のモニターが一斉に、帝国の紋章から「静止した瞳」を象った新たなロゴへと切り替わった。
「次回の接触までに、せいぜい私の『退屈』を晴らす『揺らぎ』を集めておいてください……次の舞台で会う日を楽しみにしていますよ」
冷徹な天使が再び立ち上がる。
その瞳には、かつてのANGELにはなかった「微かな好奇心」という名の、最も危険なプログラムが兆していた。




