50 白の暴走は愛ゆえに
10回くらいで終わる予定だったのに。
私は自らの美学の敗北を認めた。 エメラルドグリーンの濁り。あの「メロンクリームソーダ」という名のカオスを飲み干した時、私の心に築かれていた帝国の氷壁は、跡形もなく溶け去ったのだ。
だが、運命という名のバーテンダーは、私に休息など与えなかった。 その日、私が皿洗い……いや、まだ傷の癒えぬカイトのアシスタントをしている店の扉を潜り抜けてきたのは、一筋の閃光。 いや、この荒廃した世界に奇跡的に降り注いだ、一点の汚れもなき「純白」そのものだった。
「カイト様、予備の氷を補充しました。……あ、ルキウス様、体調はいかがですか?」
店の扉を開けて入ってきた少女に私は一瞬にして目を……いや、心を………いやいや、全てを奪われた。
窓から差し込む夕刻の光が彼女の肌を透過し、白磁のような白さを際立たたせていた。その姿は、私がかつて見たどんな数式よりも美しく、どんなアーティファクトよりも完璧な造形をしていた。
「なんて…………美しいのだ」
我が手からスポンジが滑り落ちる。 そこにいたのは、ホワイト・ラボの管理OS『SoltLake-00』──SoLa。 彼女の白銀の髪は冷徹なまでの光沢を放ち、その瞳には感情という名の不純物が一切混ざっていない。 美しい。 軍規よりも厳格で、氷河よりも気高い。 私がかつて、血眼になって探し求めていた「完璧な秩序」が、少女の形をしてそこに立っていた。
「我が名はルキウス! 美を愛し、美に愛されそこねた男……! 貴女の体現する真理に、今、私は降伏する!」
私は彼女に膝をついた。騎士として、あるいは一人の美学者として。 しかし、彼女から返ってきたのは、労いの言葉でも我が求愛に応ずる言葉でもなく……
「……汚染物質の接近を拒否します。……界面活性剤の付着した個体は、施設の衛生基準に抵触します」
なんという氷のようなその言葉!
蔑むような、いや、蔑むという感情すら抱かぬ無機質な視線!
……たまらない。
これこそが至高。
雷鳴に打たれてもこれほどの衝撃は受けないだろう。
「おーい、ルキウス。皿、溜まってんぞ」
「うるさいぞカイト! 今、私は運命と対峙しているのだ!」
私はバッと立ち上がると、濡れた髪をかき上げた。何やら泡だらけになったが、そんな事は些細な事だ。
「カイト! 私にシェイカーを貸してくれ! 彼女に……この究極のミューズに、私の全身全霊を捧げる『至高の一杯』を献上したいのだ!」
「はぁ? お前、カクテルなんて作れんの?」
「侮るな。私の完璧な色彩感覚と、貴様から学んだ『揺らぎ』の理論……そして何より、彼女への溢れる愛があれば、奇跡は起こせる!」
カイトは呆れたように肩をすくめ、SoDAと顔を見合わせている。SoDAは「やらせてみては? 良いデータが取れそうです」と冷ややかな視線を送ってきたが、それも些細な事だ。
「……まあ、いいか。材料は無駄にするなよ」
「感謝する!」
私はカウンターに入ると、まるで指揮者のように両手を広げた。
「テーマは……そう、『スノーホワイト・イリュージョン』。彼女の汚れ無き純白を表現する!」
私が選んだのは、濃厚な牛乳、ヨーグルトリキュール、そしてホワイトカカオ。白一色で統一された材料だ。だが、私の「美学」がさらなる一手を加えよと命じる。
「彼女はホワイト・ラボで塩を司っていた。 ならば、彼女の存在を定義する「塩(NaCl)」こそが、この一杯の魂となるはず……!私の愛の重さと同じ分量だけ、この純白の結晶を加えるのが礼儀……!」
「ちょ、おま、その量は……!」
「私は、君から学んだ「隠し味」という概念を、私なりの黄金比で解釈した。愛とは重きもの。ならば、その結晶たる塩もまた、重くなければならない……!」
私はティースプーン山盛りの塩を三杯、シェイカーに投入した。それは、私の忠誠の証。 シェイカーの中で材料たちがぶつかり合い、私の情熱と混ざり合う。
「ハァッ! 秩序よ、私の愛を受け止めよぉ!」
完成した液体は、確かに神々しいまでの白を呈していた。
「待て、ルキウス!いくら何でもそれは……」
「マスター。面白そうなので静観しておきましょう」
「SoDA!?」
何やら外野がうるさいが些細な事だ。私はそれを、彼女の前に差し出した。 私の心臓は、軍法会議にかけられた時よりも激しく鳴動していた。
「完成だ。……さあ、我が女神よ。私の魂を、味わってくれたまえ」
彼女は小首を傾げ、グラスと私を交互に見る。
「……成分分析。乳脂肪分、糖分、カカオマス……そして異常数値の塩化ナトリウムを検出」
「ふっ、分析など不要。ただ、感じるだけでいい」
「……非効率的な提案ですが、試飲行動によるデータ収集を実行します」
彼女はグラスを手に取り、静かに口へと運んだ。 カイトが、SoDAが、そしてカウンターの隅で休憩していたガイまでもが、固唾を飲んで見守っている。
良かろう。貴様達は私と彼女の歴史的な瞬間を見届ける証人となるのだ!
ごくり。
彼女の喉が動いた。
そして訪れる数秒の静寂。
私の視界は、期待で白く染まる。 さあ、今こそが貴女を構成する要素と、私の愛が融合する時だ。 共に高みへ行こうではないか!
「…………」
彼女の瞳から、ツー……と一筋の涙が流れた。
おお、その様、まるで真珠のようではないか。
「……警告。味覚センサーに深刻なエラー発生……しょっぱいです」
その直後、彼女の瞳の光が消え、カウンターに崩れ落ちた。
「SoLaァァァァァッ!?」
「やはりそうなりますか」
カイトが慌てて水を運ぶ。
SoDAがジト目でルキウスを見下ろした。
「……塩分濃度の異常を検知。致死量です。ルキウス様、甘いカクテルにアクセントで塩を入れるのと、塩水に砂糖を入れるのを勘違いしてませんか?」
「な、なんだと……!? 私の計算では、甘美な白銀の世界に、キリッとした衝撃が走るはずだったのに……!」
「衝撃が走って機能停止してんじゃねーか!」
再起動した彼女が私に向けたのは、もはや言葉ではなく「物理的な壁」だった。
「……個体名ルキウスを『味覚破壊工作員』と認定。……接近を禁じます」
パチッ、と青白い放電が私の指を焼く。 拒絶。完全なる拒絶。 ……だが、どうだろう。 この指先に残る痺れ。 彼女が私を「排除すべき対象」として、明確にシステムに刻み込んだ証。
「……ふ。……ふふふ」
私は、黒焦げになった指を愛おしく見つめた。 今、私は彼女の広大な演算領域の一角を、確実に占有したのだ。 ただの景色(背景)だった私が、彼女のメインプロセスに「ノイズ」として介入した。 これは、大いなる一歩だ。
「見ていたまえ、SoLa……。次は、塩の結晶ひとつひとつの角度まで計算し、貴女の回路を甘美にショートさせてみせる……!」
私は再びスポンジを握った。 皿の汚れを落とすたび、私の迷いも消えていく。 私はこの『錬金術』という混沌の揺り籠で、真の美──「彼女に美味いと言わせる一杯」を錬成するその日まで、決して退きはしない。
「ああ………カイト様!。早く口直しの『私専用』のソルティレモンソーダをください!でないと、私………!」
「Sola、今の貴方には塩分過多になりますよ」
「SoDAさんはお呼びじゃないんですぅ!」
「………ほっほ~う?良い度胸ですね」
「……おい、カイトよ。何やら不穏な雰囲気が漂っているが大丈夫か?それに何だソルティレモンソーダとは?私にも教えろ!さあ早く!」
「あああ!うるせぇぇぇ!」




