49 Repaint
ルキウスは一人、別の部屋で窓の外を眺めていた。その横顔には、これまでの傲慢な余裕はなく、拠り所を失った者の空虚さが漂っている。
「……帝国軍第三師団長 ルキウス・ヴァレンハイト」
彼は自らの名を噛みしめるように呟き、自嘲気味に鼻で笑った。
「いや、今はただの、身分証一枚持たぬ亡命者か。禁書に触れ、任務を逸脱し、組織を裏切った。私が積み上げてきたキャリアも名誉も、もはや塵に等しいな……」
エリート街道を突き進んできた彼にとって、この「何者でもない自分」という現実は、腹を空かせた獣に喉元を噛まれるよりも耐え難い屈辱だった。
「ルキウス、いいか?」
カイトとSoDAが揃ってルキウスの部屋のドアをノックしたのは、そんな時だった。
「カイト、君か」
「ああ。まだこの腕の礼をしてなかったからな。ありがとう。済まなかった」
「……いや、それは私の美学が許さなかっただけの話だ。礼には及ばない」
「そうか。なら礼の代わりに、これを飲んでくれるか?」
「……慰めならば不要。今の私には、泥水がお似合いだ」
「泥水なんてウチには置いてないな。――さぁ、SoDA。仕上げだ」
「了解、マスター。グラス角度調整、氷の配置完了。……最後に、真紅の宝玉を」
SoDAの精密なアシストで仕上げをされた「それ」が、ルキウスの目の前に置かれる。
細長い足つきのグラスに注がれた、深く、鮮やかなエメラルドグリーンの液体。底から立ち上る気泡は宝石の中に閉じ込められた星屑のようにきらめき、液面には純白のアイスクリームが「孤高の島」のように浮かんでいる。 そしてその頂点には、鮮烈な赤色を放つサクランボが、王冠の如く鎮座していた。
「……なんだ、これは」
ルキウスが顔を上げ、その瞳が怪しくも美しい緑色に奪われる。
「『メロンクリームソーダ』だ。旧時代の子供じみた飲み物であり、帝国が忌み嫌う不合理・非効率の塊さ。だがな――よく見てみろ」
カイトが促す。ルキウスは吸い寄せられるようにグラスを覗き込んだ。
「……美しい」
思わず、ルキウスの口から言葉が漏れる。軍の規律のような直線的な美しさではない。人工的な緑と、自然な乳白色。そして毒々しいまでの赤。本来なら調和しないはずの色たちが、グラスという小宇宙の中で奇跡的なバランスを保っている。
「完璧な球体を描くアイスクリーム……。黄金比で配置された氷……。そして、気泡の一つ一つが、まるで命の鼓動のように……」
「いいから飲めって。溶けちまう前に。この腕の礼だ」
震える手でストローを口に運ぶルキウス。
まずは緑色の層を一口。
「……ッ!?」
甘い。強烈に甘く、そして人工的なメロンの香りが鼻腔をくすぐる。帝国の「効率的な栄養摂取」とは真逆の、なんの意味もない、ただ快楽のためだけの甘露。
「次はアイスを少し溶かして、混ぜて飲んでくれ」
ルキウスは言われるがままに、ストローでアイスクリームを突き崩した。 すると、どうだ。 あの透き通っていたエメラルドグリーンの中に、乳白色が溶け出し、マーブル模様を描き始めたではないか。
透明が、濁っていく。
秩序が、崩れていく。
汚れている。
帝国の教義ならば、これは「汚染」だ。
だが。
ルキウスは、その混ざりゆく様から目を離せなかった。雲が空を流れるような、あるいは波打ち際で泡が消えるような、二度と同じ形には戻らない「刹那の混濁」。
彼はその、白濁したグリーンを吸い上げた。
「あ…………ぁ……」
炭酸の刺激を、まろやかなクリームが優しく包み込む。尖った泡と、甘美な脂肪分。相反するはずの二つが、口の中で手を取り合い、ワルツを踊っている。それは「完璧な透明」を求めていた彼が、一度も味わったことのない感覚だった。
「……なんて、ことだ」
ルキウスの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「透明でなくとも……これほどまでに、美しいというのか。混ざり合い、濁り、二度と元に戻らないことこそが……こんなにも、愛おしいというのか……」
「帝国は『変わらないこと』を完璧とした。ANGELもそうだ」
カイトがグラスを磨きながら静かに語りかける。
「でもな、俺たちは生き物だ。混ざるし、変わるし、時には濁る。その『揺らぎ』の中にしか、本当の美味さは宿らねぇんだよ」
「……解析結果」
SoDAが静かに補足する。
「ルキウス元師団長。あなたの心拍数は現在、最適なリラックス状態を示しています。この飲み物は『非効率』の塊ですが……今のあなたには、最も必要な『処方箋』であると推測します」
ルキウスは涙を拭うのも忘れ、夢中でクリームソーダを飲み干した。最後に残った真っ赤なサクランボを、指でつまんで口に放り込む。種を、カラン、と皿に出した時、彼の顔からは憑き物が落ちていた。
「……負けたよ。完敗だ、カイト」
ルキウスは、ふっと自嘲気味に、しかしどこか晴れやかに笑った。
「私が追い求めていた『美』は、剥製のような死んだ美しさだった。……君たちの作るこの一杯は、生きている。泥にまみれ、混ざり合いながらも輝く、生命の美学だ」
彼は立ち上がると、汚れたマントをバサリと翻した。泥だらけのままだが、その姿は先ほどよりもずっと凛々しく見えた。
「礼を言う。……どうやら私は、一から『美』を学び直す必要があるようだ。この、混沌とした素晴らしき世界でな」
「そいつはいい心がけだ。で、これからどうすんだ?」
「これから……?」
「いやお前、もう宿無しだろ?」
「……!」
「ここで暮らすにしろ、お前ドリアンとか公害ポエムかましたからなぁ……あ、今なら皿洗い募集中だが?」
「なっ、貴様!私は元師団長だぞ!?洗剤で手が荒れたらどうするッ! ……あ、待て、このスポンジの配色は少し美しいな……いやいや、そうではなくてだな」
こうして、「白銀のナルシスト」改め「皿洗い担当」ルキウス・ヴァレンハイトの、騒がしくも人間らしい第二の人生が幕を開けたのである。




