47 Returner
電子音のわずかな変化に、全員の視線が同時にベッドへと向いた。緩やかな山と谷を描いていた波形が、ほんの少しだけ揺れ始める。やがてが、意志を持ったかのように形を変えていく。
「……目覚める」
ルキウスが低く呟いた。
リンはカイトに手を伸ばしかけたが触れることはせず、そのままシーツの上で拳を握りしめた。
SoDAもまた、静かにベッドに歩み寄る。しかしその動きは少しだけぎこちない。
「生命反応、安定を維持したまま上昇。神経同期率、回復傾向」
Solaがデータを淡々と読み上げる声が、いつになく小さく感じられた。
カイトの指が、微かに動く。
「……っ!」
リンの喉が鳴る。
次の瞬間、閉じられていた瞼が、ゆっくりと震えた。
まるで重い扉を内側から押し開けるように、その目が開く。
焦点の定まらない視線が、天井の無機質な照明を捉える。数秒遅れて、ゆっくりと視線が動き、最初に止まったのは……リンだった。
「……リン……?」
掠れた声。それでも間違いなく、彼自身の声だった。
リンの肩が、大きく揺れる。
「ばか……!」
感情があふれるのを抑えきれず、思わず声が震えた。
「誰が勝手に死にかけていいなんて言ったのよ……!」
「……はは……悪い……」
カイトは小さく笑おうとして、すぐに表情を歪める。まだ身体は完全には戻っていない。その様子を見て、ルキウスが即座に口を挟んだ。
「動くな。まだ術後だ。君は死にかけたのだからな」
「……そうか。死んではいないことはわかった」
「心配はいらなそうだな」
いつもの調子の応酬。それだけで、部屋の空気がわずかに緩む。
カイトの視線が、次にSoDAへと移る。
その瞬間、彼の目にわずかな違和が浮かんだ。
「……SoDA?」
「はい、マスター」
即座に応答する。その声色は先程と変わらない。
だが……カイトはじっと彼女を見つめた。
「……何か、あったか?」
リンが息を呑む。
ルキウスは黙って腕を組んだ。
SoDAは、ほんの一瞬だけ沈黙した。
その沈黙は、これまでの彼女にはほとんど存在しなかった種類のものだった。
「……はい」
やがて、はっきりと答える。
「ですが、それを説明する前に確認させてください」
「なんだ?」
カイトの声はまだ弱いが、その目には確かな意識が戻っている。
SoDAは一歩、ベッドに近づいた。
その翡翠の瞳がまっすぐにカイトを捉える。
「あなたは今も――私のマスターであることを、望みますか?」
その問いに、その場の空気が凍る。
リンは思わず口を開きかけたが、言葉を飲み込んだ。
ルキウスの目がわずかに細められる。
カイトは数秒だけ黙った。
その沈黙は決して長くはない。
けれど、その場にいる全員にとってはひどく長く感じられた。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……当たり前だろ」
迷いはなかった。
「今さら何言ってんだ。お前は最初からそうだったし、これからも変わらないよ」
SoDAの瞳が、ほんの僅かに揺れる。
「でもな」
ベッドの上で、わずかに首を動かしながら、カイトは続ける。
「それは“命令”じゃない。お前が選べ。SoDA」
「――――」
「それでも俺のそばにいるっていうなら、歓迎する。そうじゃないなら……それでもいい」
リンが驚いたようにカイトを見る。
ルキウスは、何も言わない。ただ、その言葉を静かに受け止めている。
SoDAは、動かない。だが次の瞬間、彼女ははっきりと答えた。
「私は――」
彼女の声は静かで、それでいて確固としていた。
「私は、あなたの傍にいます。これは命令ではなく、私自身の選択です」
その言葉は、これまでのどの応答とも違っていた。
定義された忠誠ではない。
プログラムされた応答でもない。
それは、自ら選び取った“意志”だった。
カイトは、少しだけ笑う。
「……なら、いい」
短い言葉。
それだけで十分だった。
「マスター。……『お冷』です。今のマスターには、これが最適解かと」
カイトは左手でそれを受け取ろうとしたが、指先に力が入らない。
SoDAはそれを察し、そっとグラスをカイトの唇に寄せた。
「…………美味いな。ただの水なのに」
「はい。不純物を取り除き、喉越しを10度に設定しました。……ですが、これは『純喫茶錬金術』ではありません」
SoDAはカイトの顔を覗き込み、翡翠色の瞳を潤ませた。
「これは、私が『美味しい』と思ってほしいと願って淹れた、ただの水です。……マスターが教えてくれた、不合理で、非効率な……『心』の一部です」
カイトは一口飲み、ふう、と深く息を吐いた。失った右腕の喪失感は、計り知れない。純喫茶錬金術を使うことも、繊細なソーダを注ぐことも、以前のようにできるかはわからない。
だが、ベッドの周りには、泣き腫らした顔のリンとSola、そして複雑な表情で窓の外を見つめるルキウス、何より心を取り戻したSoDAがいる。
「SoDA……。腕一本で、お前の笑顔が戻ったなら……安いもんだ」
「……非論理的です、マスター」
SoDAはそう答えながら、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。




