第7話 かわいい付箋裁判
事件は、一枚の付箋から始まった。
丸く、黄色く、つやつやした体。
短い手足。
何を考えているのか分からない顔。
紙の端では、謎の生き物が小さな旗を振っている。
その付箋は、太一の机へ置かれた文化祭資料に貼られていた。
「何だ、これ」
太一が資料を持ち上げる。
美月の肩が、わずかに動いた。
「付箋です」
「それは見れば分かる。朝比奈の?」
「違います」
返事が早かった。
旗の部分には、美月の字で『要確認』と書かれている。
「朝比奈の字だけど」
「使用したことと、所有していることは別です」
「じゃあ、誰の?」
「存じません」
美月は太一と目を合わせない。
前日に二人は決めた。
理解できないことを、勝手に悪い方向へ解釈しない。
本人に聞く。
太一は、美月本人へ聞いた。
美月本人は、非常に分かりやすく答えを隠した。
約束とは、守る側にも最低限の誠意が必要である。
「それ、美月ちゃんのだよ」
一ノ瀬瑠理が、離れた机からあっさり言った。
美月が振り返る。
「一ノ瀬さん」
「昨日、美月ちゃんの鞄に同じの入ってたもん」
「見ないでください」
「見せてたんだよ?」
「見える場所へ一時的に存在していただけです」
「それ、見せてたって言わない?」
瑠理は椅子を滑らせ、太一の机まで移動してきた。
付箋を見るなり目を輝かせる。
「ぴこぽじゃん!」
「ぴかぽです」
美月が反射的に訂正した。
生徒会室が少し静かになる。
瑠理は付箋と美月を交互に見る。
「詳しいね」
「作品名を知っているだけです」
「じゃあ、これ誰?」
瑠理がスマートフォンで別のキャラクターを表示する。
「従兄のぽかりです」
「これは?」
「第二期から登場した、ぴかぽの友人です」
「こっちは?」
「耳の光の数が違います。それは非公式グッズの模倣品です」
「偽物まで分かるの?」
美月は口を閉じた。
証拠を隠そうとして、自分で増やしてしまった。
これは推理小説なら致命傷である。
幸い、ここに探偵はいない。
いるのは、面白そうなことへ飛びつく一ノ瀬瑠理だけだった。
「裁判しよう!」
「しません」
「ぴかぽ付箋の持ち主を決める裁判!」
「ほとんど判明していますよね」
奏多が苦笑する。
「奏多君、裁判長!」
「僕が?」
「太一君は美月ちゃんの弁護士!」
「何でだよ」
「美月ちゃんの隣にいるから」
「法律制度を距離で決めるな」
「私は検察!」
「一ノ瀬さんは訴えた側では?」
「じゃあ原告!」
「刑事事件なのか民事事件なのかも決まっていません」
「美月ちゃん、難しい言葉で逃げようとしてる?」
「裁判そのものを拒否しています」
瑠理は付箋を高く掲げた。
「証拠品第一号!」
「一枚しかないだろ」
「証拠は増やせばいいんだよ」
「捏造するな」
瑠理は証拠品の付箋を、自分のノートへ貼ろうとした。
美月がその手首をつかむ。
「勝手に使わないでください」
全員の視線が、美月の手へ集まった。
美月はゆっくり瑠理を放す。
「資料に必要なものです」
「やっぱり美月ちゃんのじゃん」
「所有者と使用目的は別です」
「朝比奈」
太一が口を挟む。
「もう認めたほうが早くないか?」
「会長は弁護側では?」
「本人が自白し続けてるんだよ」
「弁護を放棄しないでください」
「引き受けた覚えもない」
裁判長へ任命された奏多が、机を軽く叩く。
「それでは確認します。朝比奈さん、この付箋は朝比奈さんのものですか?」
美月は付箋を見る。
黄色いぴかぽが、小さな旗を振っている。
学校では、仕事用の印象を崩さない文房具を選んできた。
これは、単に好きで買ったものだ。
太一には、何となく知られたくなかった。
理由は、美月にもよく分からない。
分からない理由は、大抵、大した理由ではないか、とても大きな理由である。
「……私のものです」
「やった、有罪!」
瑠理が両手を上げる。
「何の罪ですか」
「かわいいもの好き隠匿罪!」
「存在しません」
「刑は、美月ちゃんがぴかぽについて説明すること!」
「作品を見てください」
「長いんだもん」
「一話二分です」
「全部で何話?」
「百二十六話です」
「長いじゃん!」
「合計すれば映画数本程度です」
「映画数本を細かく分けすぎだよ」
瑠理と美月の会話を聞きながら、太一は付箋を指先で持ち上げた。
「別に、朝比奈がかわいい物を好きでも変じゃないだろ」
美月が太一を見る。
「本当にそう思っていますか」
「思ってる」
「意外では?」
「少し意外だっただけだ」
「悪い意味で?」
「違う」
太一は付箋を資料へ戻す。
「知れてよかったって意味」
美月は返事を忘れた。
知れてよかった。
つまり太一は、美月について知らないことを一つ知り、それを喜んだ。
単純な意味である。
だが、受け取る側の意識が複雑だと、単純な言葉ほど危険になる。
「……そうですか」
美月はそれだけ答えた。
「裁判は?」
瑠理が聞く。
「終わりだ」
「判決は?」
「付箋は朝比奈のもの」
「有罪?」
「だから何の罪だよ」
「隠してた罪」
「一ノ瀬のお菓子も隠してあったよな」
「あれは保管!」
「古い学校案内の後ろに?」
「安全な場所だったもん」
裁判は被告人の無罪で終わった。
そもそも、罪がなかった。
原告の瑠理だけは最後まで納得していなかったが、チョコレートを一つ渡されると忘れた。
◇
その夜。
ぴかぽ:
『鼻マダムさんは、かわいい物を好きな人をどう思いますか』
太一は、突然の質問に首を傾げた。
鼻マダム:
『かわいい物って?』
ぴかぽ:
『特定につながるため言えません』
鼻マダム:
『じゃあ何とも言えない』
ぴかぽ:
『一般論です』
鼻マダム:
『別にいいんじゃないか』
『似合うかどうかも関係ないだろ。本人が好きなら』
美月は、昼間の太一と似た答えだと思った。
しかし、かわいい物を好きな人間を否定しない男子など珍しくない。
この程度の一致で正体へ気づくなら、匿名サイトの利用者は誰も苦労しない。
ぴかぽ:
『そういう考え方は、よいと思います』
鼻マダム:
『急に評価された』
ぴかぽ:
『褒めています』
太一は小さく笑った。
◇
鼻マダムとの会話を終えたあと、美月は現実名義のトーク画面を開いた。
朝比奈美月:
『本日の付箋の件は、忘れてください』
新宮太一:
『無理。もう覚えた』
返信が早い。
朝比奈美月:
『なぜですか』
新宮太一:
『朝比奈があそこまで必死になるの珍しいから』
美月は返信欄を開き、閉じた。
続けて、もう一件届く。
『悪い意味じゃない』
匿名DMではない。
新宮太一本人との会話である。
学校の業務とも、相談室の運用とも関係がない。
美月は短く返した。
『承知しました』
それだけでは、あまりに業務連絡らしい。
迷った末、もう一文を足す。
『ただし、ほかの方には話さないでください』
新宮太一:
『分かった』
朝比奈美月:
『約束ですよ』
新宮太一:
『約束』
二人の間に、小さな秘密が一つできた。
◇
翌日の放課後。
太一の資料へ、美月が新しい付箋を貼った。
昨日と同じぴかぽ柄。
今度は隠さない。
「余っているので使います」
「そうか」
「何か?」
「別に」
太一は少し笑っている。
美月は付箋を貼り直すふりをして顔を伏せた。
裁判そのものは無意味だった。
無意味な騒動の結果、相手に見せられる自分が一つ増えた。
恋愛において、進展とは必ずしも壮大なものではない。
告白も、接吻も、抱擁も必要ない。
明日から好きな付箋を隠さなくて済む。
それも立派な一歩である。




