第5話 新宮会長は恋愛マスター
恋愛相談室に、ついに第一号の相談者が現れた。
高校一年生の男子。
学校制作の短編映画に出演しており、相手役を務める女子生徒を好きになったらしい。
ただし、その場に相談員は太一しかいなかった。
美月は番組収録が長引き、受付開始に遅れると連絡してきている。
相談室の内扉から顔を出していた瑠理を、太一は生徒会室へ追い返した。
「相談中だ。一ノ瀬は向こうにいろ」
「見てるだけでも駄目?」
「駄目だ」
「静かにするよ?」
「一ノ瀬が?」
「やっぱり無理かも」
「自分で認めるな」
瑠理は素直に内扉を閉めた。
閉めてから、その場で扉へ耳を押し当てる。
相談室の外へは出た。
太一から言われた条件は、確かに満たしていた。
「瑠理、それは見ているよりたちが悪いよ」
奏多が書類をめくりながら言う。
「静かにして。記念すべき第一号だよ?」
「盗み聞きする理由にはなってないけど」
「私は相談室の将来を心配してるの」
瑠理は扉へ耳をつけたまま胸を張った。
相談室の将来を担うには、ずいぶん行儀の悪い姿勢だった。
◇
「新宮先輩は、こういう相談に乗れるくらい、恋愛経験があるんですか?」
男子生徒は、本気で不安そうだった。
もっともな疑問である。
相談者にとって、太一は恋愛相談室の担当者だ。それなりの経験や知識があると思って訪れたのだろう。
実際の新宮太一は、高校二年生にして交際経験ゼロ。
誰かへ告白した経験もなければ、恋人と手をつないだ経験もない。
好きな女子とは一年近く親しくしているのに、今も苗字で呼んでいる。
恋愛相談員としては、かなり心もとない経歴だった。
しかし太一は、かつて天才子役と呼ばれていた。
今も俳優を続け、生徒会長を務め、校内ではそれなりに女子から人気がある。
そんな自分が、
実は誰とも付き合ったことがありません。
とは、言いづらい。
高校生にもなって恋愛経験がない。
昔から顔を知られ、女子から好意らしいものを向けられたこともあるのに、交際経験はゼロ。
それは少しかっこわるい。
いや、かなりダサかった。
「まあ、人並みには」
太一は表情を変えずに答えた。
人並みが具体的に何人を指すかは、この際問題ではない。
「やっぱり、そうなんですね」
男子生徒の表情が明るくなる。
内扉の向こうで、奏多が音もなく天井を見上げた。
瑠理は目を輝かせる。
太一君、恋愛経験あるんだ。
意外ではあったが、疑いはしなかった。
瑠理は人を信じる心を持っている。
深く考える習慣を持っていない、ともいう。
◇
「好きな相手は、同じ作品の共演者なんだな」
「はい。僕の相手役です」
男子生徒は、持参した台本を机へ開いた。
「この場面で、僕の役が彼女の役へ気持ちを伝えるんです。台詞の内容が、そのまま僕の気持ちに近くて」
太一は示されたページを読む。
夕暮れの駅。
旅立とうとするヒロインを、主人公が引き止める場面らしい。
『君がいなくなったあとも、この町で同じ朝を待てるとは思えない』
高校生が日常で口にすれば重い。
映画の終盤なら成立しそうな台詞だった。
「この台詞を使って告白するのは、卑怯でしょうか」
「使い方による」
太一は台本を読み直した。
恋愛経験はない。
だが、告白場面なら何度も見てきた。演じた経験もある。
台詞へ入る前の呼吸。
視線を合わせるタイミング。
沈黙を長く使う場面。
どこから光を当てれば、横顔が最も印象的に映るか。
現実の高校生の告白には、ほとんど必要のない知識だった。
太一は、真剣に考え始めた。
「撮影の最終日は?」
「来週です」
「最後に撮るのは?」
「ちょうど、この駅の場面です」
太一の頭の中で、一つの絵が完成した。
「だったら、撮影が終わったあとだ」
「撮影後?」
「ああ。スタッフが撤収したあと、監督へ頼んで照明を一本だけ残してもらう」
男子生徒が身を乗り出す。
「照明を?」
「映画と同じ位置に立つんだ。相手にも、最後の場面と同じ場所へ来てもらう」
「二人で場面を再現するってことですか?」
「最後まで聞け」
太一は台本を指先で叩く。
「予備の台本はあるか?」
「あります」
「なら、このページだけ切り離す。相手役の名前を、好きな相手の本名へ書き換えて渡せ」
男子生徒の目が輝いた。
「それ、めちゃくちゃいいです!」
「だろ?」
太一にも手応えがあった。
恋愛経験はない。
知識はある。
実績だけがない。
ならば知識を使えばよい。
太一の中では、問題が解決したことになった。
内扉の反対側で、瑠理の笑顔が消えた。
役名を、好きな女子の本名へ書き換える。
太一は大真面目である。
相談者も感動している。
瑠理は静かに扉から耳を離した。
「どうしたの?」
奏多が尋ねる。
瑠理は遠い目をした。
「ダサ……」
「聞いていたわりに厳しいね」
「だって、役名を本名に書き換えて、そのページだけ渡すんでしょ?」
「そうみたいだね」
「ダサくない?」
奏多は答えなかった。
その沈黙を、瑠理は肯定として受け取った。
◇
「でも、台本を渡すだけですよね?」
相談者が聞いた。
「まだ終わりじゃない」
太一は、完全に演出家の顔になっていた。
「撮影が終わったら、相手へ連絡する」
「何て送るんですか?」
「『最後のシーンを、もう一度だけ撮りたい』」
相談者は息をのむ。
「それで、映画と同じ場所へ来てもらう。ただし、お前は衣装を着るな。役として呼んだわけじゃないと分からせるためだ」
「なるほど……!」
「相手が来たら、撮影時と同じ場所へ立ってもらう。そこへ照明を一本だけ当てる」
「一本だけ」
「映画の台詞を最初から言う。相手役の名前を呼ぶ直前で止めて、書き換えた台本を渡す」
「相手が自分で気づくんですね」
「そうだ」
「すごい……」
「相手が顔を上げたら、映画では言わなかった台詞を一つだけ足す」
男子生徒は、ごくりと唾をのんだ。
「何て言えばいいですか?」
太一は考えた。
ドラマなら、ここで主演俳優の顔へカメラが寄る。
音楽が止まり、遠くを走る電車の音だけが残る。
「『カットがかかっても、この気持ちは終わらなかった』」
相談者が目を見開いた。
「それ、最高です!」
生徒会室の瑠理は、両手で顔を覆った。
「増えた。ダサいのが増えた」
「もう聞くのをやめたら?」
「ここまで聞いたら、最後まで聞きたい」
ダサい。
しかし続きは気になる。
瑠理にとって、感性と好奇心は別々に管理されていた。
「それで終わりですか?」
「いや。告白したあと、すぐ返事を求めるな」
「じゃあ、どうすれば?」
「相手の前へ、撮影で使ったカチンコを置く」
「カチンコ?」
「そこへ、『返事をするなら、このカチンコを鳴らしてほしい』と書いておく」
男子生徒は、もはや太一を尊敬の目で見ている。
「もし相手も僕を好きだったら?」
「カチンコを鳴らす」
「好きじゃなかったら?」
「何も鳴らない」
「すごい。音で答えが分かるんですね!」
「そうだ」
二人は深くうなずいた。
二人の間では、完璧な作戦が完成していた。
第三者から見れば、告白へ照明、台本、決め台詞、カチンコまで動員する必要はない。
しかし相談者は映画が好きだった。
太一は演出が好きだった。
二人の相性が恐ろしく良かった結果、恋の暴走列車は誰にも止められなくなった。
「僕、絶対に成功させます!」
「ああ。中途半端にやるなよ」
「はい!」
◇
同じころ。
番組収録を終えた美月は、相談室の廊下側の入口へ到着していた。
中から話し声が聞こえる。
すでに相談者が来ているらしい。
美月はノックをしようとして、太一の声に気づいた。
「相手が顔を上げたら、『カットがかかっても、この気持ちは終わらなかった』と言う」
美月の手が止まった。
何の話だろう。
恋愛相談らしいことは分かる。
意味は分からない。
美月は扉を数センチだけ開いた。
太一と相談者は話へ夢中で気づかない。
「それから、相手の前へカチンコを置く」
「カチンコを」
「ああ。相手も同じ気持ちなら、鳴らしてもらうんだ」
「すごくロマンチックです!」
美月は扉を静かに戻した。
新宮太一は、冷静で現実的な人物だと思っていた。
生徒会の仕事に無駄を嫌い、必要なことを短い言葉で決める。
美月が考えすぎていると、余計な理屈を削ってくれる。
そういうところを信頼していた。
その太一が、告白のために照明を残し、台本を書き換え、意味深な台詞を追加し、最後にはカチンコを鳴らさせようとしている。
思っていた人と、違いすぎる。
美月の頭の中で、王子の衣装を着ていた太一が徐々に蛙へ変わっていく。
少しだけ、好きになったことを後悔しかけた。
完全に後悔できれば話は簡単だった。
しかし、胸の内側に残っているものは驚くほど減っていない。
それが、また腹立たしい。
「新宮先輩って、やっぱり恋愛経験が豊富なんですね」
扉の向こうから、相談者の感心した声が聞こえた。
「まあ、人並みには」
美月の表情が止まった。
太一は、実際にこうした告白をしてきたのだろうか。
過去の女性へ台本を渡し、照明の下で決め台詞を口にし、返事の代わりにカチンコを鳴らさせた。
経験もなく、こんな方法を思いつく人がいるとは考えにくい。
つまり、実績がある。
美月の中で、存在しない過去の女性たちが次々と照明の下へ立ち始めた。
全員が太一から台本を渡され、感動し、順番にカチンコを鳴らしている。
嫌だった。
かなり嫌だった。
嫉妬以前に、演出が恥ずかしい。
太一に元恋人がいたことより、彼女たち全員がカチンコで返事をした可能性のほうが受け入れがたい。
美月は壁にもたれそうになり、背筋を伸ばした。
朝比奈美月は、五人組アイドルグループのクール担当である。
廊下で好きな男子の恋愛観にドン引きしている場合ではない。
呼吸を整え、相談者が出てくるまで廊下の角で待つことにした。
◇
やがて、相談室の扉が開いた。
男子生徒が台本を胸へ抱えて出てくる。
表情は明るい。
美月を見つけ、頭を下げた。
「朝比奈先輩。新宮先輩に相談して、本当によかったです」
「……そうですか」
「僕、絶対に成功させます!」
「何をでしょうか」
「映画みたいな告白です!」
男子生徒は、希望に満ちた顔で去っていった。
美月は、何とも言えない顔でその背中を見送る。
若者の未来を応援したい。
しかし今回ばかりは、早めに考え直してほしい気持ちもあった。
美月は、すぐには相談室へ入らなかった。
太一の顔を見れば、蛙の鳴き声が聞こえてしまいそうだったからである。
◇
相談室の中では、太一が一人で記録用紙をまとめていた。
相談者は、迷いを捨てて帰っていった。
提案した計画にも、かなり乗り気だった。
初めての恋愛相談は、少なくとも相談者の満足という一点において成功である。
太一は、記録用紙へ迷いなく書き込んだ。
『相談者本人の希望に基づき、作品の場面を利用した告白方法を提案。実行予定』
完璧だった。
相談者の悩みを聞き、本人の勇気が出る方法を考え、実行へ導いた。
恋愛経験がないことなど、相談員としての能力には関係ない。
むしろ、経験だけで語る者より、自分の持つ知識を応用できる太一のほうが優れている可能性すらある。
成功する。
太一には、その確信があった。
根拠は、相談者が喜んでいたこと。
そして、これまで数多くの恋愛作品へ出演してきた自分の演出力。
実際の恋愛経験は、一件もない。
自信だけは、すでに経験者の域へ達していた。
太一は記録用紙をファイルへ収める。
内扉を少しだけ開けると、瑠理が慌てて自分の席へ戻るところだった。
「一ノ瀬」
「私は何も聞いてませーん!」
「全部聞いてただろ」
「聞いてないよ。カチンコとか全然知らない」
「知ってるじゃないか」
瑠理は口笛を吹こうとして、音を出せなかった。
奏多は書類へ視線を落としたまま、肩をわずかに揺らしている。
「どうだったの?」
「相談者は納得して帰った」
「本当にやるの?」
「ああ」
「成功すると思う?」
太一は少しも迷わなかった。
「するだろ」
断言だった。
瑠理は何か言おうとして、やめた。
太一があまりに自信満々だったからである。
根拠のない自信は、ときとして周囲の判断力まで奪う。
瑠理は再び考えた。
もしかすると、ダサいと思っている自分の感性が間違っているのかもしれない。
太一は恋愛経験もあるらしい。
相談者も感動していた。
ならば成功するのではないか。
「じゃあ、結果を待とう!」
瑠理は明るく言った。
「ああ」
太一もうなずく。
相談室第一号への対応は、こうして終了した。
学長の説明もない。
美月の現実的な修正もない。
恋愛経験ゼロの男子高校生が、映画で得た知識だけを頼りに、後輩へ壮大な告白を勧めた。
普通なら、不安しか残らない。
しかし太一だけは満足していた。
新宮太一、生徒会長。
俳優。
そして本日より、恋愛相談の成功を確信する者。
まだ一件も成功していないことだけが、唯一の問題だった。




