第3話:ガチャと教育の果て
無機質な白に塗られた旧上海シェルターの教育区画。そこには、子供たちの生気を吸い取る
ような、息が詰まるほどの重苦しい沈黙が満ちていた。
空気清浄機が発する低く単調な「ブオーン」と耳障りな稼働音と、小さな手の中で無骨な
機械部品が擦れ合う「カチャカチャ」と悲し気な金属音だけが、この部屋のBGMだ。
教壇に立つ陳暁燕は、冷たい眼差しで整然と並ぶ百人の少年少女たちを
見下ろしていた。彼女の現世での役割は、党に忠誠を誓う子供たちの思想統制と労働訓練を
担う、若き女性教官である。
だが、彼女の魂には、前世の日本で刻まれた別の名前があった。
加藤奈々。
首都圏で数十の教室を展開していた、進学塾のカリスマ経営者である。
「……前世も現世も、結局やってることは何も変わらないわね」
暁燕――奈々は心の中で自嘲した。
前世の彼女は、「教育」という名のブルシットジョブの頂点にいた。子供たちの将来への
不安を徹底的に煽り、『全国模試無料』と『友達紹介キャンペーン』のキャッチコピーで
敷居を低くして、徹底的に生徒募集をかけて駒を揃える。その後、親の恐怖心を操作して
オプション講習を高く積み上げたカリキュラムを作成し、高額なローンを組ませ、生徒たち
を『偏差値』という数字の奴隷に仕立て上げる。
「このクラスから落ちたら、あなたたちの人生は終わりよ」
「隣の席のあの子は、あなたより三時間も多く勉強しているわ」
そうやって恐怖で人間を競わせ、他人を蹴落とすことだけを教え込んだ。
それは、人間の価値を数字で切り売りする、資本主義の最も醜悪なシステムのひとつだった。
そして今、この極端な全体主義が支配する地下シェルターでも、構造は完全に一致している。
偏差値の代わりに子供たちの命の選別を行っているのは、『社会信用ポイント』だ。
『警告。訓練生番号704、作業効率低下。社会信用ポイント、マイナス3』
天井のスピーカーから、無慈悲なAIの合成音声が響き渡る。
教室の隅で、一人の痩せ細った少年――704番が、過労で震える手から機械部品を落としたの
だ。彼は血の気の引いた顔で慌てて床を這いずり、部品を拾い集めようとする。
だが、隣の席の少女――705番は、彼を助けようとはしない。それどころか、関わり合いに
なるのを恐れるように、体を固くして自分の作業用モニターに目を伏せた。
当然だ。この世界では、ポイントが規定値を下回れば「廃棄」、すなわち下層の汚物処理施設
への永久追放が待っている。前世の受験戦争など生ぬるい、文字通りの生存競争だ。
子供たちは隣の仲間を「敵」とみなし、他人のミスを見て見ぬふりをするように徹底的に
最適化されていた。
「一部の特権階級が富と資源を独占するために、
下層の人間を数字で競わせて共食いさせる……。
資本主義だろうと共産主義だろうと、
上層部のクソどもが考えることは同じね。
人間の命を、システムを回すための『燃料』としか思っていない」
奈々は教壇の上で、血が滲むほど強く拳を握りしめた。
前世で、自分の冷酷な指導の末に、重圧に耐えかねて心を壊してしまった生徒たちの顔が
フラッシュバックする。
また私は、同じ罪を繰り返すのか。この数字の牢獄で、子供たちの心を殺し続けるのか。
同時刻。千キロ強離れた旧北京・ディストピアシェルターの中枢情報局。
王美玲は、冷めた合成コーヒーを口に含みながら、何千万人もの社会信用
ポイントがリアルタイムで増減する巨大なメインコンソールを睨みつけていた。
彼女は党直属の天才システム開発者。
しかしその正体は、前世の日本で「ソシャゲの悪魔的ガチャ設計者」として名を馳せた
高橋結衣である。
「あーあ、本当にセンスがない。
こんなクソみたいなUIじゃ、誰も課金しないわよ」
美玲――結衣は、ディスプレイに並ぶ無数の「減点ログ」を見て、
不快感に顔をしかめた。
現在の統治システムは、ひたすら恐怖と減点だけで人間を管理している。ノルマを達成
できなければ減点。党を批判すれば減点。他人にリソースを分け与えれば「非効率な行動」
として減点。
「人間の脳汁を極限まで操って、
射幸心を煽って金を搾り取ってきた私から言わせれば、
この全体主義の監視システムなんて、ただの『出来の悪いクソゲー』ね」
美玲――結衣は独りごちて、キーボードに長い脚を投げ出した。
「資本主義っていうのはね、もっと狡猾なのよ。
恐怖で縛り付けたユーザーは、いずれ疲弊して心を破壊する。
最高の搾取ってのは、ユーザー自身に『もっとやりたい』
『自分の意志で選んでいる』と錯覚させることなの。
このシェルターの支配層どもは、人間の『欲』の扱い方を
全く分かっていない」
結衣がコンソールの裏側に隠されたバックドアのコマンドを叩き込むと、無機質な
画面に突如として見慣れた緑色の文字列が走った。
『Aチャンネル:隔離スレ』
前世の記憶を持つ同志たちが集う、あの「限界突破ガチャ」が導いたダークウェブの作戦会議室だ。
結衣は、滑らかな指先で猛烈な速度でタイピングを開始した。
『結衣(北京)/ おい、聞いてるかクソ共。
こっちの全体主義シェルター、減点方式のクソゲーすぎて歩留まりが最悪よ。
運営(党)のセンスがなさすぎて草も生えない』
数秒後、上海にいる奈々からレスが返ってきた。
『奈々(上海)/ こっちの教育区画もよ。
子供たちを恐怖で競わせてるけど、もう精神的に限界。
前世の私みたいに、子供を数字で追い詰めるだけの地獄よ。
……ねえ結衣、あんたの持ってるその「ガチャ」の設計思想、
こっちの教育システムに組み込めない?』
『結衣(北京)/ ほう? どういうこと?』
『奈々(上海)/ 恐怖じゃなく、快楽で人間を動かすのよ。
他者を蹴落とすんじゃなくて、「協力」した時にだけ発生する隠しスコアを作って』
『結衣(北京)/ なるほどね。
他人を助けるという非合理的な行動に、強烈なランダム報酬を設定するわけか。
行動心理学におけるオペラント条件づけ。……資本主義の亡霊たちが作り上げた
『ガチャ』のシステムで、共産主義の監視AIをハックする。
最高にイカれた教育ね』
結衣の口角が、前世の悪徳プランナー時代のように獰猛に吊り上がった。
彼女の脳内で、完璧なアルゴリズムが組み上がっていく。
結衣のガチャ設計の技術と、奈々のカリスマ教育者の心理誘導術の融合。
『結衣(北京)/ いいわ、やってやる。
監視社会のバグを突いてやるのよ。
今、旧北京から上海の教育サーバーへシステムをバイパスさせて、
社会信用ポイントのアルゴリズムに極秘のパッチを当てる』
結衣は凄まじい速度でコードを書き換え、システムの深淵に一つの「特例ルール」
を潜り込ませた。
『結衣(北京)/ 名付けて、『相互支援ボーナス』。
他人の作業をカバーしたり、助けたりした時だけ、
ごく低確率でポイントが跳ね上がる乱数を仕込んでやったわ。
さあ奈々、あんたの教室で、チュートリアルを始めなさい』
再び、上海の教室。
部品を落とした少年、704番の息は限界まで荒くなっていた。ノルマ達成の時間は刻一刻と
迫り、彼のポイントはすでに「廃棄」のラインを割り込もうとしている。
恐怖で涙目になりながら、震える指で基盤を組み立てようとするが、うまくいかない。
「……あ、ぁ……」
絶望の呻きを漏らす少年の隣で、705番の少女が、ふと手を止めた。
彼女のポイントにはまだ余裕がある。だが、ここで彼を助ければ、自分の作業が遅れて減点
される。それがこの世界の絶対のルールだ。
しかし、彼女の視界の端で、教壇に立つ教官――陳暁燕(奈々)が、
わずかに頷くのが見えた。
その目は、いつもの冷酷な教官のそれではなく、まるで母親のように温かく、強く彼女を
肯定していた。
(……助けて、あげて)
言葉には出さない奈々の祈りが、少女の背中を押した。
少女は唇を強く噛み締めると、監視カメラの死角を突き、自分のトレイに完成していた部品を
三つ、そっと少年のトレイに移し替えた。
少年が、信じられないというように少女を見た。
本来のプログラムなら、「不正なリソースの譲渡」として即座に警告音が鳴り響き、二人は
容赦なく減点処理されるはずだった。少女もまた、目を固く閉じて罰の宣告を待った。
しかし、次の瞬間。
二人の手元にある作業端末の画面に、これまで誰も見たことのない、眩いばかりの
『虹色のエフェクト』が激しく明滅した。
『シークレット・ボーナス達成。
作業トレイの重量センサーが、部品の移動を検知し、相互支援行動を確認。
……社会信用ポイント、プラス50』
AIの音声はいつもの無機質な電子音だったが、二人の脳内には、まるでURレアカードを引いた
時のようなファンファーレとして鳴り響いた。
「え……?」
二人の子供の目が、驚愕に見開かれた。
プラス50ポイント。それは、一ヶ月間不眠不休で働いても得られないほどの、途方もない
莫大な数字だった。
その瞬間、彼らの脳内に、未体験の報酬物質が爆発的に溢れ出した。
決して満たされることのなかった渇きが潤い、恐怖で張り詰めていた神経が、強烈な快感と
安心感によって解き放たれていく。
「あ……ああ……ッ」
少年、704番の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
それは、ポイントがもらえたからではない。助けてもらったからでもない。
この地獄のような世界で、
「誰かに優しくしても、罰せられない」
「自分は、誰かに助けられてもいい存在なのだ」
という事実そのものが、彼の凍りついた心を根底から打ち砕いたのだ。
「よかった……本当によかったね……」
部品を渡した少女、705番もまた、両手で顔を覆いながら泣き崩れた。
彼女もずっと苦しかったのだ。隣で倒れていく仲間を見捨てるたびに、自分の心を殺し、
人間性をすり減らしてきた。
他人のために何かをして、それが正当に評価される。その当たり前の「利他」の温もりが、
どれほど尊いものだったか。
教室中の子供たちが、作業を止めて二人を見つめていた。
彼らの目に宿っていた「他人を蹴落とす冷たい光」が、困惑から、やがて「希望」へと変わって
いくのを、奈々は教壇の上から静かに見つめていた。
奈々の視界もまた、とめどなく溢れる涙で滲んでいた。
「……やっと、私は……本当の教育ができた」
前世で、数字を使って子供たちを地獄へ突き落とした彼女のスキルが。
今、数字を使って子供たちに「誰かを助ける喜び」を教え、人間性を取り戻させるための光
となった。
奈々は目元を拭うと、涙でぐしゃぐしゃになった子供たちに向けて、前世の作り笑いでは
ない、
心からの満面の笑みを向けた。
「さあ、あなたたち。今のエフェクトを見たわね?
システムにはまだ『隠しルート』があるわ。
隣の子が困っていたら、迷わず手を差し伸べなさい。
誰かを助けた者にだけ、この世界は最大の報酬を与えてくれるのよ!」
「……ふふっ、あっはははは!」
北京のコンソール前で、結衣は腹を抱えてあざ笑っていた。
画面には、上海の教育区画からリアルタイムで送られてくるデータが映し出されている。
子供たちが次々と互いを助け合い、あちこちの端末で「虹色のSSRエフェクト」が乱舞して
いる。そのたびに莫大なポイントが乱高下し、統治AIの想定していた監視グラフを滅茶苦茶に
破壊していく。上位の監査AIには、正常な平均値のダミーグラフをループ送信して誤魔化して
いた。
「党の上層部が異変に気づくまでの数時間が勝負よ」
「資本主義の亡霊も、共産主義の残骸も、所詮は古いOSに過ぎないわ。
人間の『誰かの役に立ちたい』っていう究極の欲求を、なめんなっての」
恐怖による支配は、快楽による連鎖には絶対に勝てない。
監視社会の巨大なシステムが、二人の「ブルシットジョブ」のスキルによって、静かに、
しかし確実に内側から書き換えられていく。
「さあ、もっと脳汁を出しなさい。
誰かのためになる行動が最高の快楽になる、新しい教育の始まりよ」
美玲――結衣は冷めたコーヒーをあおりながら、Aチャンネルに次のメッセージ
を叩き込んだ。
共産圏の教育システムを破壊し始めたウイルスは、今、子供たちの涙と笑顔を苗床にして、
世界中へ感染を広げようとしていた。この小さな教室の涙が、やがて地球全体を巻き込む大革命
の『産声』になることを、支配層どもはまだ知る由もなかった。




