第2話:金の鎖と冷徹な牙
眩いホログラムディスプレイが、薄暗いオフィスを青白く照らし出している。画面に躍る
のは、地下都市『ニュー・ニューヨーク』の上層部を流れる、莫大な資源とエネルギーの
取引データだ。
「……シット、ダムイット。本当に、ヘドが出る」
エマは、自身の美しいブロンドの髪を苛立たしげにかき上げ、ディスプレイを睨みつけた。
彼女の現世での仕事は、統治評議会直属の天才データアナリスト。しかし、どれほど見事な
肩書きを与えられようとも、彼女の魂にはもう一つの名前と、消えない罪の記憶が深く刻まれ
ていた。
田中美咲。
前世の日本で、画面の数字を動かすだけで数十億の金を転がし、人々から「カリスマ個人
投資家」と崇められた女だ。実体のないマネーゲームに興じ、他人が額に汗して生み出した
価値をかすめ取り、誰の腹も満たさないブルシットジョブ――すなわち虚業のトップランナー
として、強欲の限りを尽くしていた。
核の炎で地上が滅び、人類がこの閉塞したシェルターに逃げ込んでからも、人間の本質は
何も変わっていなかった。いや、むしろ過酷な環境が、資本主義の「狂気」を限界まで剥き
出しにしていた。資源が有限になったからこそ、その所有権を持つ者の権力は絶対となり、
搾取の構造は前世の地球よりもはるかに露骨で、えげつないものへと進化していたのだ。
エマが見つめる画面には、人間の命を冷酷に査定する恐るべき数式が並んでいる。
この地下都市では、生きるために不可欠な『酸素』と『水』の供給インフラのすべてを、
上層の数%の富裕層、すなわち「資本家」たちが私有財産として完全に独占していた。
彼らは自ら労働することはない。ただ「所有している」という権利の書類一枚を盾に、
下層民から莫大な「インフラ利用料」を巻き上げているのだ。
資本が資本を生み、持てる者は人工太陽の光を浴びて寝ているだけで、何もしなくても
富が集まる。一方で、持たざる者は高騰し続ける空気代を払うために、有害な硝煙が立ち
込める合成タンパクの生産工場や、排泄物が渦巻く汚物処理場で命を削って労働する。
しかし、彼らが一日中汗水たらして得た僅かな賃金は、その日のうちに「呼吸税」と
「水道維持費」として、そのまま資本家のポケットへと還流していく。
貯蓄なんてできるわけがない。このシステムは最初から、貧乏人が一生奴隷から抜け出せず、
その血と肉を絞り尽くされるように緻密に設計されているのだ。
上層の居住区では、本物の土を使った観葉植物に贅沢な真水が注がれ、飼い犬のために純度
の高い酸素ルームが提供されている。そのすぐ真下の層では、子供たちが濁った水を分け合い、
二酸化炭素濃度の高い淀んだ空気を吸って喘息に苦しんでいるというのに。
エマが細い指先で画面をタップすると、リアルタイムの投機グラフが表示された。
上層のヘッジファンドたちが「明日の酸素先物相場」を吊り上げた結果、グラフの曲線が
鋭角に跳ね上がる。それと完全に連動して、画面の隅にある『下層民の平均余命』の数値が
ガクンと減算された。
数字を動かすだけで、下層の人間がリアルタイムで窒息死していく。前世の自分が画面の
向こうでやっていたゼロサムゲームの、これが究極の、そして最も醜悪な完成形だった。
自動ドアが静かに開き、一人の男が部屋に入ってきた。足音すら凍りつきそうなほど冷徹
な気配を、その仕立ての良いスーツの裏に纏っている。
「データアナリスト殿。感傷に浸る時間があるなら、
第三四半期のエネルギー配分予測を出してくれ。
最適化プランの提出期限はもうとっくに過ぎている。
私の一時間を奪うことは、下層民100人を窒息死させる
ことと同義だと理解しているのか」
部屋の静寂を切り裂いたのは、研ぎ澄まされた剃刀のように冷たい声だった。
入ってきたのはウィリアム。旧ワシントン・軍事複合体利権から派遣された、若き冷酷
な補佐官だ。
エマは彼を振り返り、フッと自嘲気味に微笑んだ。
ウィリアム――いや、吉田健太。
前世の日本で「企業の癌を削る聖職者」を気取り、容赦ないリストラとコストカットで、
財務三表の数字をいじり、損益計算書(P/L)、貸借対照表(B/S)、キャッシュ・フロー
計算書(C/F)を思いのままに操った。結果、数多の労働者を路頭に迷わせ、数え切れない
ほどの人間を自殺に追い込んできた、悪名高きCEOである。
「相変わらず冷酷を極めていらっしゃるようで、ウィリアム。
今度はどこの『コスト』を削って、誰の命を縮めてきたの?」
「下層区の空気清浄フィルターの交換周期を、従来の1.5倍に延ばしてきた。
これで上層の人工太陽ベランダに回す電力を3%確保できる。
ROI――投資利益率としては完璧な選択だ」
ウィリアムは感情の失せた硝子のような瞳で、淡々と報告する。
エマは信じられないというように、美しく整えられた目を剥いた。
「正気? フィルターの交換をそれだけ遅らせれば、
下層に有害な微粒子や重金属が滞留するわ。
呼吸器疾患で死ぬ人が確実に増える。
老人や子供、弱者から順番に、肺を潰されて死んでいくのよ!」
「だが、彼らが死んでも代わりはいくらでもいる。
スラムには職を求めて彷徨う失業者が溢れているからな。
労働力の供給過剰だ。
システム的には、彼らの医療費を負担するよりも、使い潰して
新しい労働者を補充する方が『最もコスパが高い』。
それが市場の原理だ」
ウィリアムはデスクに歩み寄り、エマのディスプレイをコツコツと人差し指で叩いた。
「いいか、エマ。資本主義の本質とは、リスクと痛みをすべて最弱者に押し付け、
リターンだけを最強者が独占するシステムだ。
インフレが起きれば、資本家は商品の値段――ここでは空気代と水代を
上げればいいだけで、痛くも痒くもない。資産の価値が目減りするどころか、
インフレの波に乗ってさらに肥え太る。損を被るのは常に、貯蓄を持たない
その日暮らしの貧乏人だ。前世の日本でもそうだっただろう?
景気が悪くなれば、真っ先に非正規雇用を切り捨て、下請けを叩いて
帳尻を合わせた。上の人間は痛みを伴わない。
痛むのはいつも、声を持たない下流階級の人間だ」
ウィリアムの言葉は、恐ろしいほど正鵠を射ていた。彼はこのシステムの残酷さを、
誰よりも深く「理解」し、それゆえに完璧な執行人として振る舞っていた。
前世で犯したリストラという名の人間破壊。その罪に苛まれながらも、現世でもまた、
彼は金持ちをさらに太らせるために貧乏人の呼吸を止める、吸血の歯車として最適化
されていた。
「……でも、ウィリアム。あなたのその『完璧な合理主義』、もうすぐ破綻するわよ」
エマは冷ややかな声で言い、ホログラムの画面を別のデータへと切り替えた。
ニュー・ニューヨーク全体の、マクロ経済と資源循環のシミュレーション図だ。
「あなたが下層の命を削って上層の富を増やし続けた結果、
下層民の購買力と生存力が完全に限界を迎えているの。
彼らのサイフも、彼らの肺も、もうこれ以上値上がりする
空気代を支払えない。あと3ヶ月。
そう、あと3ヶ月で下層の労働人口は餓死と窒息で激減する。
そうなれば、上層の人間が優雅に食べる合成タンパクを『誰が』作るの?
資本家たちが自分で汚物処理場に降りて、泥にまみれて働くと思う?」
ウィリアムの端正な眉が、ピクリと不快そうに動いた。
「富を独占する金の鎖が、自分たちの首を絞めている、か」
「そうよ。金持ちが得をし続けるために、貧乏人をギリギリまで
搾り取った結果、システム全体を支える土台が腐り落ちようとしているの。
資本主義っていうのは、無限の成長と、無限のフロンティアを前提にして
いるけれど、この閉じられた地下世界に『無限』なんてどこにも存在しない。
あるのは決まった量の空気と、決まった量の水だけ。
これ以上の搾取は、全員を巻き込んでの共倒れを意味するわ。
それが、私たちが前世から崇拝してきた、市場という名の神様の正体よ」
ウィリアムは沈黙した。冷徹な補佐官として完璧な仮面を被りながらも、彼の隠された
拳は、微かに、しかし激しく震えていた。
彼もまた、自分が前世で犯した「効率という名の破壊」の罪、そして現世で繰り返して
いるえげつない吸血行為に、深い吐き気を覚えていた。どれほど数字を最適化しても、
ルールそのものが狂っていれば、ただ死を効率化しているだけに過ぎない。
だが、このルールの中で生きる以上、立ち止まることは破滅を意味していた。
「土台が狂っていれば、いくらコストカットをしても
意味がないことは分かっている。
……だが、これに代わる新しい社会の『OS』など、
この世界には存在しない。
強欲以外で人間を動かす動力を、俺たちは知らない」
ウィリアムが絶望を孕んだ諦念を口にした、その時だった。
バチバチッ、とオフィス全体のホログラムディスプレイが一斉に激しく明滅した。
青白かった空間が、一瞬にして赤と緑の警告色に染まる。
『――警告。未知の暗号通信を受信。評議会中央サーバーをバイパス。
グローバル・地下ネットからの強制割り込み――』
統合AIの無機質な電子音声が、バグを起こしたように歪んで鳴り響いた。
直後、エマのプライベート端末の画面に、この世界の暗号化技術をあざ笑うかのような
速度で、歪な「文字列」が爆発的に浮かび上がった。
「シット、オーゴッシュ……ッ!?」
エマは息を呑み、椅子から立ち上がった。
現世の人間にとっては、ただの通信エラーか、壊れたノイズの羅列にしか見えないだろう。
しかし、彼女の魂はその文字列を、強烈な、涙が出るほどの懐かしさとともに瞬時に理解
した。
それは、現世のいかなる言語の文法にも属さない、かつて緑の山々と豊かな水に恵まれて
いたあの国の言葉だった。
『限界突破ガチャ 実装のお知らせ / 対象者:ブルシットジョブ経験者限定』
「これ……21世紀の、日本のネットミーム……!?」
驚愕するエマの隣で、ウィリアムの瞳にも、かつて見せたことのない激しい動揺が
走っていた。現世では北欧やアメリカ、ユーロと国籍も人種も違うはずの二人の脳裏に、
あのくだらなくて、平和で、無駄に満ち溢れていた日本の記憶が鮮烈に蘇る。
「……『魂の言語、日本語』だ。
誰かがダークウェブの最深部から、世界中の地下ネットに向けて、
検閲網を焼き切るほどの全方位バーストを放ったな。
……エマ、俺たちと同じ『転生者』が、他にもいる。
それも、この世界のクソみたいな支配構造を、根底からハック
しようとしているイカれた奴が」
ウィリアムがそう口にした瞬間、暗号化されたパケットの末尾に、リアルタイムで新しい
文字列が追加され、見覚えのある「掲示板」へと画面が遷移した。通称、Aチャンネル。
既存のどの統治AIも関知できない、世界の裏側に作られた名もなき反逆者たちの作戦会議室だ。
『スレタイ:【悲報】今のシェルター生活、資本主義も共産主義も詰んでて草』
そこには、どこかの地下にいるという『ルイ』、そして管理者を名乗る『アストリッド』の、
あまりにも軽妙で、しかしこのディストピアの構造を完全に理解した上での、熱い対話が
リアルタイムで刻まれていた。
『お前ら、前世でクソみたいなブルシットジョブに揉まれてきたんだろ?
だったらその「クソみたいなスキル」、こんな世界のクソ支配層を
丸め込むために使ってやろうじゃねぇか。暴力じゃ勝てねぇが、
契約の書き換えプランなら俺たちの十八番だろ』
画面に躍るルイの書き込みを見て、エマとウィリアムは、息を詰めて顔を見合わせた。
自分たちの前世の罪を知り、その忌むべき、しかし誰よりも社会の裏の仕組みを熟知した
「クソみたいな技術」を、今度こそ世界を救うための武器として求めている存在が、
海の向こうの地下にいるのだ。
「数字の奴隷、か……。本当に、最高に皮肉ね」
エマの唇に、これまでにない挑戦的で、かつて何百億もの相場を冷徹に張っていた頃
のような、獰猛な笑みが浮かんだ。数字に吐き気を催していた彼女の瞳に、初めて本物
の「意志」の光が宿る。
「ウィリアム。どうやら、私たちの持っているあの最悪な経験を使って、
この狂ったシステムを内側から破壊する時間が来たみたいよ」
ウィリアムの被っていた冷徹な補佐官の仮面が剥がれ、前世の吉田健太の地金が見えた。
「フン、効率の悪い世界を書き換えるというのなら、
俺の『牙』の使い所としては悪くない。
これ以上の、誰の役にも立たないブルシットジョブには、
反吐が出るほど飽き飽きしていたところだ。
金持ちの太った腹を割いて、その中身をすべて書き換えてやる。
……乗るぞ、エマ。その『Aチャンネル』とやらに」
二人は同時に端末を叩き、ダークウェブのさらに深淵、世界の既存のルールが届かない
領域への接続を開始した。
かつて日本を、そして世界を破滅へと導いた「無駄と強欲のトップランナー」たちが、
今、貧乏人が二度と窒息しない「全く新しい社会のOS」をゼロから設計するために動き出す。
ニュー・ニューヨークの青白い闇に、強欲な支配層の首を狙う、冷徹な牙が静かに剥かれた。
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