第十三章「同化否定」
「……まだあるな」
視線の先には何もない。何もないのに、そこだけ避けて通れない感じがあった。
少なくとも、目で見える形では。
だが——。
「……ある」
確実に。
“その先”だけが、静かに口を開けている。
「……行く」
踏み出す。迷いはない。
次の瞬間、世界が消えた。
空間が消える。時間が消える。
「……っ」
何もない。
音も、色も、距離もない。
終わりみたいな静けさだけが、目の前に広がっている。
「……ここか」
立っている感覚すら曖昧になる。
自分が前を向いているのかどうかさえ、判断の基準が薄い。
それでも——。
「……問題ねぇ」
存在だけで立つ。
それで足りると思えたから、まだ自分の形は残っている。
何も起きない時間が流れる。
いや、時間もないから“流れる”という表現すら正しくないのかもしれない。
「……来ねぇな」
そう呟いた時、初めて“気配”が生まれた。
「……来たな」
前方。
何もないはずの場所に、確かに“いる”。
次の瞬間、“それ”が現れた。
形はない。輪郭もない。
だが、今まで見てきたどんな存在よりも、曖昧さの質が違う。
「……違うな」
圧がない。威圧もない。存在感すら薄い。それなのに——。
「……全部ある」
すべてを内包しているとしか思えない。
“それ”がこちらを見る。
その瞬間、あらゆるものが止まった。
思考も。感覚も。
存在の振動さえ凍りつく。
『到達確認』
直接、流れ込む。
「……ああ」
短く返す。
“それ”が続ける。
『最終判定』
静寂。
「……いい」
口元だけで笑う。
「……これが最後か」
剣を構える。
だが、そこで違和感に気づく。
動かない。
いや、動く必要が見つからない。
「……必要ねぇな」
「……選択か」
“それ”が言う。
『同化/否定』
選べ、という圧だけが残る。
胸の奥が、ほんの少し冷えた。
「……なるほどな」
顔を上げる。
ここまで上へ来た。
誰かが決めた枠に押し込まれそうになるたび、邪魔だと思って壊してきた。
だから最後に差し出されたこれだけが、妙に平らに見えた。
「……同化すれば」
すべてを内包する側へ行く。
何も欠けないもの。
迷いも衝突もなくなる代わりに、息の置き場所まで同じ色に塗られそうだった。
「……否定すれば」
今の自分のまま、外に立ち続ける。
だが、それも結局は用意された反対側でしかない。
どっちを選んでも、向こうの線の上だ。
自由に見えて、足元だけはもう決められている。
その見えない線が、足裏に貼りつくみたいで鬱陶しかった。
「……どっちも違うな」
静かに言う。
「……俺は」
一歩、踏み出す。
“それ”へ向かって。
『……選択確認』
「……選ぶ」
剣を構える。
だが、振りかぶることはしない。
「……壊す」
その瞬間、“それ”が初めて揺れた。
『……異常』
初めて、向こう側の静けさにひびが入る。
「……枠ごとだ」
「……いらねぇな」
踏み込む。
「——斬る!」
何もない。音もない。衝撃もない。だが——。
“それ”に、確かにひびが入った。
『……不可能』
「……できる」
もう一度。迷いなく。
「——斬る!」
——パキン。小さな音だった。
小さいくせに、やけに奥まで届いた。
手応えは薄い。
だが、薄いのに消えない。
“それ”が崩れる。
足裏に貼りついていた見えない線が、まとめて切れる。
同化か否定か。
その二択ごと、音もなく砕けていく。
長い沈黙のあと、遅れて世界が戻った。
音より先に、足裏の感覚が戻ってくる。
「……戻ったか」
基地の屋上。
神崎とレオンがいる。
神崎が固まったまま口を開いた。
「……おい。今の、なんだ」
レオンは静かに在真を見る。
「……変わったな」
「……ああ」
短く返す。
だが、次の言葉は自然に出た。
「……変わってねぇ」
視線を空へ向ける。
「……終わりか」
少しだけ考える。そして——。
「……いや」
口元だけで笑う。
「……ここからだな」
剣を肩に担ぐ。
見上げた空は、拍子抜けするくらいいつもの色をしていた。
雲が流れている。風が吹く。
遠くでは、どこかの設備が低く唸っている。
神崎がようやく息を吐く。
「ほんと、お前……最後までそういう感じなんだな」
苦笑とも呆れともつかない声だった。
在真は肩越しに軽く見る。
「……何がだ」
「何がって、全部だよ。あんなわけ分かんねぇとこまで行って、戻ってきて最初の一言がそれか?」
「……他に言うことあるか?」
神崎は一瞬黙って、それから笑った。
「ねぇな」
レオンもわずかに口元を緩める。
「……それでいい。妙に悟った顔をされるより、よほど信用できる」
「……だろ」
短く返す。
「……好きにやるか」
神崎が肩をすくめる。
「出たよ。それが一番厄介なんだよなお前」
「……褒め言葉だな」
「褒めてねぇよ」
いつも通りのやり取りだった。
その間だけ、足元の感覚が少し戻った。
レオンが空を見たまま言う。
「世界のほうは、まだ君に追いついていない。たぶん、これから各地で遅れて反応が出る」
「……だろうな」
「混乱もする。利用しようとする連中も、怯える連中も出る」
「……勝手にしろ」
在真は淡く言う。
少しだけ、街の音が遠かった。
風の匂いも、前より薄い。
それでも不快じゃない。
戻れなくなった場所がある気はした。
でも、そこで立ち止まるほどでもなかった。
「……でもまあ」
神崎が手すりにもたれたまま、少しだけ真面目な声を出す。
「お前がそのままなら、それでいいんじゃねぇか」
在真は何も答えず、風の匂いを吸い込んだ。
乾いた金属の匂い。
少し遅れて、街の空気。
それだけで十分だった。
足元で、ガルが低く鳴く。
見下ろすと、こっちが妙に遠くへ行っていないか確かめるみたいに、じっと在真を見ていた。
「……なんだ」
鼻先が軽く手の甲に触れる。
いつも通りだった。
少し薄くなっていた手の感覚が、そこでちゃんと戻る。
「……いるな」
ガルはもう一度だけ鳴いた。
レオンが静かに頷く。
「……終わったっていうより、ようやく邪魔がなくなった、か」
「……そうだな」
空を見上げる。
神崎がそこで、ふっと笑う。
「ちゃんとお前だな」
「……何がだ」
「匂いだよ。空気でもいいけど。何つーか、上まで行って帰ってきたやつの顔じゃねぇ」
「普通なら、もっと嫌な目するだろ。遠く行っちまったやつみたいにさ」
レオンも小さく息を吐く。
「……変わってはいる。だが、変わったまま君でいる。それが一番厄介だ」
「……褒めてるのか?」
「半分は」
「……そうか」
空を見上げる。空は少し薄い。
風も軽い。
それでも、邪魔がないのは悪くなかった。
「……悪くねぇな」
誰に向けるでもなく、そう漏れた。
風が吹く。
静かな世界は何も変わっていないように見えた。




