終章「遅れてくる世界」
しばらく、誰も動かなかった。
風だけが吹いていた。
屋上の端に積もった砂埃が、薄く流れる。遠くの空は明るいのに、足元のコンクリートだけが妙に色を失って見えた。
「……降りるか」
最初に口を開いたのは在真だった。
神崎が一拍遅れて頷く。
「そうだな。さすがに、いつまでも上でぼーっとしてると下が持たねぇ」
「……もう持ってないだろ」
言いながら扉へ向かう。
金属の取っ手を掴む。冷たさは分かる。だが、少し薄い。手に触れている感覚が、一瞬だけ自分を通り越してから戻ってくるみたいだった。
そのまま押し開ける。
階段室の空気は、屋上よりさらに軽かった。
薄い、というより、空っぽに近い。
「……静かだな」
「防音だよ」
神崎が言う。
「いや、そういう話じゃねぇか」
在真は返さなかった。
足音がやけに遠い。
自分が降りているはずなのに、下へ向かっている感じが薄い。段差の高さだけが、かろうじて身体に伝わってくる。
ガルが一段下を先に降りて、ふいに足を止めた。
耳が立つ。
その先から、人の気配がいくつも重なっていた。
ざわめき。息。
無線の小さいノイズ。
「……来てるな」
神崎の声がわずかに固くなる。
「そりゃ来る。来ない方がおかしい」
レオンは階段の踊り場で一度立ち止まり、目を細めた。
「混線している。命令系統も、状況認識も、たぶんまだ定まっていない」
「……だろうな」
在真はまた降りる。
止まる理由もなかった。
角を曲がった先、数階下の踊り場で武装した人間がこちらに気づいた。
「来た!」
誰かが叫ぶ。
その声が、少し遅れて耳に入った。
何人かが反射で銃口を上げかける。だが、神崎の顔を見て止まった。次にレオンを見る。最後に在真とガルへ視線が集まる。
その順番だけで、場がどれだけ乱れているか分かった。
誰も、何をどう見ればいいか決めきれていない。
「銃下ろせ」
神崎が短く言う。
「でも――」
「下ろせっつってんだよ」
今度は少し強かった。
そこでようやく、何本かの銃口が下がる。
全部じゃない。
下ろしたあとでも、指に力が入っているのが分かる。
「……別に撃ってもいいぞ」
在真が言うと、空気が凍った。
神崎がすぐに顔をしかめる。
「そういう言い方すんな」
「……撃たれて困るわけでもない」
「困るんだよ、周りが」
呆れた声だった。
だが、その雑な返しの方が場には効いたらしい。張り詰めきっていた連中の息が、ほんの少し散る。
それでも、一人だけ目を逸らさない男がいた。
三十代くらい。制服の上からでも分かるくらい肩に力が入っている。恐怖を隠しきれていないのに、それでも前へ出る役を押しつけられている顔だった。
「確認したい」
喉が乾いているのか、声が掠れていた。
「上で、何があった」
在真は少し考えた。
考えたというより、言葉にするのが面倒だった。
「あった、で済む量じゃねぇよ」
神崎が額を押さえる。
「お前な……」
「……止まった」
言い直す。
それだけなら、まだ楽だった。
「もう、あれは来ない」
男は眉を寄せる。
あれ、という雑な言い方が余計に怖いのかもしれなかった。
在真には、うまく言い換える気が起きなかった。
レオンがそこで一歩前へ出る。
「今は、彼に言葉を求めるより、周辺の記録を拾え」
「聞くのを後回しにしろと?」
「君たちが追える順番で起きていない」
静かな口調だった。
だが、その静けさの方がかえって刺さった。
「無理に言葉へ落とせば、余計にずれる」
男はそこで口をつぐむ。
納得したわけじゃない。ただ、押し返されただけだ。
在真はその顔を見て、少し懐かしいと思った。
昔の自分ではない。
ダンジョンに入る前の、自分の外にいた大半の人間の顔だった。
何が起きているのか分からない。
でも、分からないまま決めなきゃいけない。
その雑な苦さだけは、まだよく分かった。
「……神崎」
「なんだ」
「こいつらに任せると長い」
「任せなくても長ぇよ」
神崎はため息をついて、周囲を見回した。
「とりあえず通せ。上からの確認が済むまで、この場で足止めする方が危ねぇ」
「危ない、とは」
さっきの男がまた食い下がる。
そこで神崎は少し言葉を選んだ。
「そいつの機嫌とか、そういう安い話じゃない」
視線が、在真に向く。
「まだ戻り切ってねぇんだよ」
在真は何も言わなかった。
否定するほどでもない。
さっきから少しずつ、感覚の焦点が合っていないのは自分でも分かっていた。
人の声が重なると、輪郭が曖昧になる。
匂いが薄い。
階段の踊り場に立っているだけなのに、足場が少し遅れて固まる。
その程度だ。
その程度でしかないのに、普通の人間と一緒の場所にいるには十分鬱陶しかった。
「……外、出るか」
「またかよ」
神崎が笑う。
「お前ほんと建物向いてねぇな」
「……薄い」
それだけ言うと、神崎の顔から笑いが少し抜けた。
レオンが横から見る。
「何が」
「全部だ」
壁も、人の声も、空気も、ここにあるはずのものが一枚向こうに貼りついている感じがした。
触れば触れる。
だが、掴んでいる実感が遅い。
ガルが足元へ寄る。
肩口に鼻先が触れた。
それだけで、少し戻る。
「……なら、なおさら人混みは避けるべきだ」
レオンが言う。
「落ち着いて固定できる場所へ移ろう」
「固定って言い方やめろ」
神崎は即座に返した。
「怖ぇんだよ」
「事実だ」
「事実でもだ」
二人のやり取りを聞きながら、在真は階段を降り切る。
下のフロアへ出ると、壊れた機材の臭いがした。
焦げと金属、オゾンの匂い。今度は少し濃い。悪くない。
廊下の端ではモニターがいくつも点滅し、映像の代わりにノイズを吐いていた。誰かが慌ただしく端末を叩いている。別の誰かが怒鳴っている。だが、怒鳴り声の中身は半分も頭に残らない。
「……うるせぇ」
実際の音量より、混ざり方が鬱陶しかった。
神崎がそれを聞いて、すぐ前に出る。
「通路空けろ。今は近づくな」
今度は誰も逆らわなかった。
逆らえなかった、に近い。
廊下の空気が割れる。
在真はその真ん中を歩いた。
見られているのが分かる。
怯え、警戒、好奇。
利用価値を測る目。
何種類もあった。
そのどれも、前より少し遠い。
嫌いではない。
ただ、面倒だった。
外へ出る扉が開く。
夕方の空気が流れ込んできた。
それだけで、肺の奥が少し落ち着く。
「……やっとマシだ」
誰に聞かせるでもなく言う。
施設の横には簡易の通信車両が並んでいた。アンテナが何本も立っている。その周囲を走り回る人間たちの動きだけがやけに速く見えた。いや、速いんじゃない。焦っているだけだ。
「すぐ囲い込みが来る」
レオンが空を見る。
「政府、軍、研究機関、民間の覚醒者組織。全部、遅れて押し寄せる」
「……来させとけ」
在真は空を見上げる。
高い。薄い。けれど、今はその薄さのほうが少し楽だった。
でも、さっきまでの上よりはずっとまともだった。
神崎が隣で肩を回す。
「正直、お前よりそっちの方が面倒だな」
「……だろうな」
「お前は切れば終わるけど、あいつら終わんねぇし」
「俺を先に切る前提で言うな」
「違うのか?」
神崎が笑う。
在真も口元を緩めた。
その動きがまだ自分のものとして返ってきたので、少しだけ息が楽になる。
レオンがその横顔を見て、珍しく言いよどんだ。
「……君は」
続きがすぐ出てこない。
在真はそっちを見る。
「なんだ」
「いや」
レオンは視線を外した。
「思っていた以上に、普通に立っている」
「……そう見えるか」
「見えるだけかもしれないが」
その言い方の方が正しかった。
在真は空を見たまま、ゆっくり息を吐く。
普通かどうかは分からない。
ただ、まだ自分で動ける。
それで十分だった。
「……じゃあ、しばらく好きにさせろ」
誰に向けたのか分からない言葉だった。
だが、神崎もレオンも何も言わなかった。
風だけが抜ける。
その風の薄さが、今はちょうどよかった。




